得るもの失うもの | ノーマライゼーション

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発達障害や精神障害(パーソナリティ障害)の、パッとみは定型発達や健常者とほとんど変わらない理解されにくい、一当事者の苦悩や体験や日常

何かをすると、得るものがある反面、失うものがあることもまた自覚しないといけませんね。

先ほど、昔のかなり歳上の知り合いに1年半ぶりに電話をしました。そしてそこで、自分は今発達障害や精神障害の認定を受けて生活していることを話しました。

すると、

相手「あんた、足かどっか悪かったっけ?」

私「精神や発達の方で障害者認定されてます。」

相手「そんなん、誰かてそういうところあるわいな。そんな、障害者認定なんて取り下げて前向いて進み。あんたは、上の学校だってでてんにやしな。
そんな認定とって甘えてんと、前向いて進み、就職して、仕事してな」と

これを聞いて、この人は昔の定型発達者で健常者のエレガントが好きなんだなと。 これが世の中の一般の人の意見なわけです。

ここで、自分には二つのチョイスが生まれます。上の相手に好かれる、いやこれまで離れていった障害に理解のない一般的な価値観をもった人たちに好かれるために、生きにくい定型発達者や健常者にあわせて生きるか、そして生きにくい思いをするのか。

それとも、一般的な価値観をもった知人、友人を失ってでも、発達障害や、精神障害をもっていることを前面にだして生きやすい生き方を選ぶのか。


どちらのチョイスを選ぶにしても、良い面もあれば、そうでない面もあります。光あるところには必ず陰があります。

一般的な価値観を持った、障害に理解のない人たちも、全員受け入れてねって仲良くして、障害もオープンにできて、影の部分が一切ない。

そんな都合の良い生き方なんてないんですね。得るものがあれば、同時に失うものもある。

発達障害や精神障害をオープンにして生きるとは、生き方を変えることなんですね。

そして、生き方を変える以上、必ず失うものもあるということだと思います。それを受け入れるだけの器をもつ必要があると思うんです。

自分も、発達障害や精神障害をオープンにして、それまで仲良くしていた多くの友人、知人が離れていきました。

彼らは、それまでの僕の生き方を好んで僕のそばにいてつるんでいてくれた。

それが、僕が生き方を変えると、大半の人が離れていきました。これは彼らだけが、わるいのではありません。

生き方を変えるとはそういうことだと私自身受容する必要があったのですね。

当時の私は度量が足りませんでした。
だけど、障害受容という新しい生き方をして、徐々にそれを受け入れはじめています。

生き方を変えても、自分のところに残ってくれた友人、知人を大切にして、生き方を変えたことで自分のもとに新しくきてくれた人たちを大切にしたいと思います。

長文すみませんでしたを





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