こんにちは。ニューヨークで役者やってます、まみきむです。

NYアクターの生活、オーディション、現場での様子、また独断によるツッコミなどをお届けしています。

 

アメリカでも日本でも、最近はハラスメントに関する認識過去記事参照)が高まってきている…これまでは「みんながやっているから別にええやん!」と思われてきた事でも、その「みんな」というのは、実はごく一部の社会的強者に過ぎず、その陰では「本当は嫌なんやけど」という声が無視されてきたわけで、私はこうした認識の強化は喜ばしい事だと思っている…「ハラスメントを気にしていたら冗談も言えない」などという人がいるが、それはそんな冗談しか言えない事の方が問題なのだ。

 

しかし、何でもかんでも「ハラスメント呼ばわり」され、その結果本当の「ハラスメント」もそれらと同じ冗談の延長の様に見られる事には、少し危機感を覚える…例えば「すれ違いに肩が触れただけでもセクハラ?」という様なことが言われ続けると、本物のセクハラレポートも「うっかり肩が触れた程度ではないのか?」と見られたりする…ここでは「触れた」のが、本当に「うっかり」だったのか、それとも「うっかりを装ってわざと触れた」のかという事が重大であって、触れた度合いはこの際さほど問題ではないのだ…

 

その境界線ギリギリにあるのが「マルハラ」メールやテキストなどの文末に句点「。」をつけると最近の若者は威圧感があるように感じる」という事らしいが、実は最初それを聞いた時、私は絶対ギャグだと思っていた…いや、最初はギャグだったのかもしれないが、それがいつしか「ハラスメント」としても認識される様になった?!…この辺りの信憑性は、実は現代の日本社会で働いていない私にはちょっとわからないのだが、「マルハラで若者に嫌われない様にするには」なんてことを自慢げに書いているオヤジもいる事を思うと、結構深刻に捉えている人もいるのかもしれない…

 

実は日本語に句読点が定着したのは、明治時代…と、実は日本語史の中では比較的新しい…おそらくそれは外国語(特に英語)の「.(ピリオド)」と「,(カンマ)」の日本語版として句読点が作られたのだろうが、その前の時代の、例えば平安時代の「源氏物語」や江戸時代の黄表紙などには句読点は使われていない…だから別になくてもいいというつもりは無いが、句読点を使わない若者によって「日本の伝統が壊される!」と躍起になるほど古いものでもないようだが…

 

かくいう私も、実は句点(マル)は、あえて言い切る時にしか使わず、ダラダラ喋っている感じを出したい時や、その前の記述に突っ込みたいときは「…」を使うこのブログで「…」が多用されているのはそのためでもある

 

英語の言い回しにも「これこれこういうこと。Period!というものがあるが、この「Period」は文末の「. (コンマ)」のことで、「問答無用」「これが最終通告でこれ以降交渉の余地無し」という意味である…つまり「.(ピリオド)」は明らかに「断固とした意思表示」なのだ。

だからその日本語版の句点にも「威圧感」があるのは、ある意味当然かもしれない…

 

それに対して「最近の若者」が本当にハラスメントと感じるほどのストレスを感じる…かどうかはこの際どうでもいい…実際そう感じる人もいるだろうし、感じない人もいるだろう…お前はお得意様が句点を使っても同じ様に言うするつもりか?…と密かにつっこんでいる若者もいるかもしれない…しかし、「威圧感を感じる若者がいるから、句読点は使わない方がいい」という事になると、それは違うだろう?!と言いたくなる。

 

実際若者だって、仕事が出来て人格の優れた上司ならば、句読点を使おうがなんだろうが、威圧感も込みで尊敬するだろう…しかし尊敬される要素がないのに、威圧感だけ与えようとする…という場合が問題なのではないか?!あるいは、人間的な一言が当然あってしかるべきところで、紋切り調に「了解です。」としか返事しない、その思いやりの欠如やデリカシーの無さが「威圧感」という言葉で表されるだけではないか?!…つまり、問題はその人間関係にあるのに、それを安易に「句読点のせい」にしてしまっていないか?!マルハラの真相は、そんなところではないだろうか…という気がしてならない…

 

いずれにせよ、「こうしたらこんなふうに見られるのではないか?」という事に、オッサン達も気にする様になった…というのは、大きな進歩かもしれない…しかし、そういう風に気を使わなければならない事を嘆くオッサン達「今更何を」と、それまで「気遣い」が仕事の一部であった女性達が、冷ややかな目で見ている事も忘れてはならない…

 

 

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