リリー先生のリーディング・クラスの生徒は 


外国人、特にヨーロッパから来た女性が多いのですが、


ほとんどの生徒が 「名作と言われているわりには、「グレート・ギャツビー」がストーリーとして単純すぎる」と
思っているみたいでした。


ギャツビーのどこがいいのか分からない!」
「デイジーのどこがいいのか分からない!」



など、

最後のクラスの感想を聴いていると、ほとんどの生徒が登場人物に感情移入できなかったみたいでした。
1920年代のアメリカ小説のキャラクターは、現代ヨーロッパ人女性には、
単純すぎたようです。


アメリカ人は、この小説のどこに最も惹かれるのでしょう?
 どこに感情移入するのでしょう?」 
と リリー先生に 聞いてみました。

リリー先生
「そうねー、う~ん・・・・・。


 アメリカ人は、自分をギャツビーねながら読むと思いますね。


 彼の行動に感情移入しながら読むと思います。


 彼の 恋、夢 が叶うといいな、と思いながら読みます。


 結末が悲劇であることにも 多くの人が 惹かれるのじゃないかしら。


 フィッツジェラルドとゼルダの恋が 有名であることも、この小説の人気を
 支えていると思うわ 」


みなさんの感想はどうだったでしょう?


ニューヨークの英語の先生と一緒に読もう!BookTalk F・フィッツジェラルド 「グレート・ギャツビー」

グレート・ギャツビーの 最後の名文 部分、 
なんとも美しい 文章です。


最も最終の、 So からの 一文は、作者F.Scott Fitzgerald の 墓石に
彫られています。


Gatsby believed in the green light, the orgastic future that year by year recedes before us.
It eluded us then, but that's no matter --- to-morrow we will run faster, stretch out our arms farther ..
And one fine morning-----


So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly in to the past.


これで、「グレート・ギャツビー」は、お終い。


(最後のこの文、ちょっと、水前寺清子の
 ”365歩のマーチ” を、思いだしたりしてしまいました・・・ぜんぜんイメージは違いますけど)

そして、第1章の冒頭部分と おなじく、名文と 讃えられている
最終章の 終わりの文章です。


原書:p.180 5行目あたりから
村上春樹版:p.324中ほどから


ニックは、自分の故郷、中西部へ帰る前の夜、
ギャツビー邸 を歩いてみました。
ギャツビー邸から 海峡を眺め 月明かりの中、
ニックは、アメリカ大陸に ヨーロッパからの最初の移民を連れてきた 
メイフラワー号を 想いました。


い過酷な船旅に耐えた 移民たちの目に最初に映った
フレッシュで グリーンな 新世界!
移民たちの 驚嘆 Wonder は どんだったろう! とニックは思いを馳せます。


同時にニックは、


ギャツビーの 
成り上がるまでの 大金持ちになるまでの それがたとえ非道なものであったとしても 
過酷だっただろう 道程を経て ギャツビーの目に最初に映った
グリーン色のライト、デイジーのいる場所の目印のように輝く グリーン!
それを 初めて目にした ギャツビー の Wonder 驚嘆は どんなだっただろう! とニックは思いを馳せます。


日本語訳だと、
移民の目に映ったグリーン」と「ギャツビーが見たグリーン・ライト」が
になっているのが わかりにくいですが、原書だとすぐに わかります。


社会階層、宗教など様々な縛りごとのあるヨーロッパ大陸から、
理想や希望 アメリカン・ドリームを 抱いて 新大陸アメリカへ 来た 移民たち。


移民たちの 目指したのは フレッシュなグリーンの新世界アメリカ。

貧乏なジェームズ・ギャッツを捨て、アメリカン・ドリームを体現した
ジェイ・ギャツビー が目指してきたのは、
グリーン・ライトが輝くところにいる 愛するデイジー。


I became aware of the old island here that flowered once for Dutch sailoes' eyes---
a fresh, green breast of the new world.
Its vanished trees, the trees that had made way for Gatsby's house,
had once pandered in whispers to the last and greatest of all human dreams;
for a transitory enchanted moment man must have held his breath in the
presence of this continent, compelled into an aesthetic contemplation
he nither understood nor desired, face to face for the last time in history
with something commensurate to his capacity for wonder.

And as I sat there brooding on the old, unknown world,
I thought of Gatsby's wonder when he first picked out the green light
at the end of Daisy's dock. He had come a long way to this blue lawn,
and his dream must have seemed so close ・・・・・

――続き――


" 果たされることなく終わった哀しみや、人の短命な至福に対して、
僕が一時的にせよこうして心を閉ざすことになったのは、
ギャツビーをいいようにして食い物にしていた連中のせいであり、
彼の夢の航跡を汚すように浮かんでいた、醜い塵芥のせいなのだ。


リリー先生


 「ギャツビーを食い物にしていた連中、醜い塵芥、


  それは、小説に出てきた 登場人物たち、トム、デイジー、そのほかの人たち・・」

ーーつづきーー


”実のところギャツビーは、僕が「こんなものは絶対に我慢ならない」と考えるすべてを、
そのまま具現したような存在だった。


リリー先生

   「もともと、ニックにとって ギャツビーは、ニックのとなりに住む 際限のなさそうなおカネで、
    豪華な見かけ に飾られた 中身のない大金持ちという存在でした。
    そのギャツビー像が ひと夏の間に 変わってゆきました  」


” もし人格というものが、・・・・・それは彼に尋常ではない希望を抱かせ、
 強い夢想へと駆り立てた。


リリー先生

  「 成り上がってきた ギャツビー。 
    デイジー と人生をやり直すために 限度なく成り上がってきたギャツビー 」


” そう---ギャツビーは最後の最後に、彼が人としてまっすぐであったことを
僕に示してくれた。


 # 原書の方では、かんたんに、
    No--Gatsby turned out all right at the end;


――続く――
 
     

――続き――

”昨年の秋に東部からここに戻ってきたときの僕は、いっそのこと世界が軍服を身にまとい、
いつでも道徳的に気をつけの姿勢をとっていればいいのにという心情にさえなっていた。


リリー先生


  「“ギャツビーのひと夏”が終わったあと、東部つまりニューヨークから


    故郷の中西部に戻ってきた ときの、ニックの心情は、


   No more party. Behave now. という心情だった、という意味ですね」

――前回から続き―――


村上春樹版:p.10 後ろから 2行目から~
原書:p.2 8行目から


”とまあ、自分の忍耐心についてこのように偉そうに講釈をたれたあとで、
それでもやはり限度があることを、進んで認めなくてはならない。
人の営為は堅固な岩塊の上に築かれているかもしれないし、あるいは軟弱な
泥地に載っているかもしれない。
しかしあるポイントを過ぎれば、正直なところ何の上にあろうが、僕としてはとくに
どうでもよくなってしまう。


リリー先生
 「 ニックのもともとの性格は、人をすぐ決めつけてしまわない性格でしたね。
  でも ”ギャツビーとのひと夏の出来事”のあと、


  (but after a certain point しかしあるポイントを過ぎれば)


  ニックはわりました。 


  決めつけてしまってもいい人たちもいるんだ、 Some peole are just bad.


と思うようになったわけですね。


  Some people というのは、誰のことか、今となってはわかりますね?」

さて、ギャツビーの葬儀が終わり、 

ナレーター・ニックのニューヨークでの「ひと夏の物語」が終わりました。


ここから先は、第1章の冒頭部分の ニックのナレーションと だいたい同じ時間に ります。


(原書:p.175 中ほどから 村上春樹版:p.315 "今でも鮮やかに脳裏に残っているのは・・・”


第1章の読み始めに 読みにくく、難解に映った文章も、最終章を読み終わってから
もう一度読み始めると、ぜんぜん、難しいことが書いてあったわけでは無いのが分かります。


(村上春樹版では: 9ページ~12ページ ”・・・醜い塵芥のせいなのだ。”まで)
(原書では: 1ページから 2ページの***マークまで)


(1)まず、最初の ニックのお父さんの言葉から ニックの性格 をこまごま書いた部分。
  
  前にも書いた通り、(ブログ:1月23日教室(8)第1章)
  おもには、


  リリー先生

 「この物語を語る ナレーターとして ニックが いかに ふさわしい性格をしているか、
  の説明をしています。
  
  それと、ニックは、ギャツビーを理解する誠実な人間ではありましたが、、
  実際のところギャツビーとは違い、ニック自身はトムやデイジーと同じ階層
  の出身であることが 書かれていますね  」
  
  ”人間の基本的な良識や品位は、生まれながらにして公平に振り当てられるわけではない。
   そしてもしそのことを忘れたら、ひょっとしてひどく重要なものを見落としてしまうのではないかと、
   僕はいまだに心配になってしまう。” (村上春樹版:p.10後ろから5~3行目)

  

リリー先生
   「 金持ちのトムやデイジー、貧乏出身のギャツビー、マートル、ウィルソンが


    この小説で 起こした行動に 関係がありますね 」

   

―――続く――――

リリー先生


「原書:p.179

They were careless people, Tom and Daisy----
they smashed up things and creatures and the retreated back into
their money or their vast carelessness, or whatever it was
that kept them together,and let other people clean up the mess
they had made......


ケアレスな人々、トムとデイジー、そして多くのお金持ちたち。
 彼らは好き放題 人でも何でも めちゃくちゃにしておいて、
 都合が悪くなったら 引っ込んで 後始末は ぜんぶ他の人がやるわけです。


 ブッシュ大統領は、この8年間 自分の属する階級が都合のいいこと 好き放題し、
 メチャクチャにするだけして、去ってしまいました! 
 
 それに、たとえば、ブッシュ大統領のファーストレディーだったローラ夫人
 彼女は、17歳のとき、自動車で人を殺しています。
 一時停止のサインを無視して運転して、別の車とぶつかったのです。
 別の車に乗っていた人が亡くなりました。
 その亡くなった男性は、ローラ夫人の元ボーイフレンドでした。
 ローラ夫人は、未青年であったため、刑事罰無しで済みました。
 
 この年間、ブッシュとローラは、トムとデイジーにたとえられていました。 」
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 村上春樹版:p.322  8行目から
 

The-son-of-a-bitch とくると、

すぐに侮蔑意味合いがあるのかと、外国人には思えるのですが、
クラスで、フランス人生徒がちょうどそれを尋ねていました。


リリー先生
「The poor-son-of-a-bitchに 侮蔑の意味は、ありません。ええ、全然ありません」
ということでした。


原書:p.175 11行目
村上春樹版:p.315 3行目 


ギャツビーの葬儀で、参列した フクロウ眼鏡男 が、最後につぶやいた言葉。
" The poor-son-of-a-bitch. " 
「なんともはかないものだ」


poor というのは いろいろなが可能で、


「かわいそうな」「あわれな」「不幸な」
それに「亡き」「故人となった」もかのうで、
そもそも、「貧乏な」「貧民階級」と意味で、


どれも、ギャツビーを表していて ひとつの言葉に訳すのは難しそうです。


そして、作者フィッツジェラルドが1940年12月21日に亡くなったとき
フィッツジェラルドの葬儀で、参列した詩人ドロシー・パーカーは、
フクロウ眼鏡男が 亡きギャツビー に言った、
この "The poor-son-of-a-bitch."  の言葉 を、
亡きフィッツジェラルドに、泣きながら言っていた ということです。