仏像や神像についての短い思いつき・「合一」について
神像とか仏像とかって、拝む対象物じゃなくて、見て感知してその像の表す力を自分に取り込め、って目的で作られたんでは。つまり神像や仏像を見たら「オマエもこうなっていいんだぜ」って誘われてる、助け舟を出されてる。合一しようぜ、他者としてみてないで、と言われてる。鑑賞してないで合一しようぜ、って。オマエの中にもあるものが響いているから反応するんだから、これはもうオマエの中にあると気がつけよ、そこを開けよ、と。あら、これからもう仏像も神像も全ての像はそう誘われてるとしか思えなくなった。誘われてるならその手を取らなければ。で、実はなにも「像」に限った話じゃないんだな、これが。花なら花に、水なら水に、全てに「合一」して味わう、自分の体験とする。そんな遊びをすればますますこの世は楽しいのではないでしょうか。私達が「美しい」と思う時、それは私達の中に元々ある美しさが外界の同じものに反応しているから「美しい」と思うのです。美しいと思う体験を沢山することが私達を豊かにするのは、それを通して自分自身の美しさを思い出すことだからです。これ、並木良和さんの講演で聞いた言葉。これを聞いた時、私はなぜ芸術作品がこの世に必要なのかがスッキリと言語化されて腑に落ちて、なぜ人はわざわざ美しい風景や美しい物を見に、出会いに時間やお金を費やして出かけていくのか、その意味が深くわかりました。今回の「像」に対しての小さな思いつきは、さらにそれを進めて観ている対象それ自身になってしまって、さらにそれが表している境地を自分自身が体験し体感して、像を見ることで悟ってしまえ、と像ってそう「使う」もんなんじゃないかな、元々は、と。そして「合一」の遊びの目線で自然界を、世界を観たらばもう至る所に「悟りのマスター」がいたんだよね。なんか世界、すごいよね。😄😄😄