変化というものを考えると、非線形的な手続きの集合が、一つの離散単位であって、これは線的であって時間をもたない。次の手続き集合との間に速度がある。この速度が時間と空間をもたらしている。時空が離散単位ではなく、手続き集合が離散単位ではないか。(変化は非線形的手続きに新たな要素が混入することによって起きるのであり、その要素こそ不確実性ではないか。新たな要素が混入すれば自動的に手続き要素が改変される)
非線形性は、集合として閉じ込められていて、それは時空という一つの現実的な(知覚的な)、空間的に連続的なものではない。物質の構成要素だ。この非線形的集合は個々がフラクタル構造であり、非線形的(非時空連続的に)にフラクタル構造で集合している可能性も高い。つまり全ては同一なのだが、これは一つに復元性の展開だが、その展開に不確実性が混入した結果である。
つまり、変化というものは線形的には起こりえない。因果関係の連続性も線形的には保証されない。というのは、変化には断絶性があるためだ。断絶性のない変化はない。変化は必ず離散的で断絶的である。であるならば、連綿とした変化、因果関係的な連続性が出現するためには、断絶性とは別の理由によって、因果関係の維持が継続している必要がある。
非線形的な因果関係の集合が維持されていて、我々が知る事の出来るのは、この集合の全体性と、その全体性の連続性だ。ただ、実験の手法によっては、非線形性の一端を垣間見ることができるかもしれない。
社会的には、観念的には、手続きは必ず増えて、複雑化する。新たな手続き集合=目的が生まれれると、その目的に向けて手続きが生まれる。部屋は放っておけば、乱雑になり、元に戻すための手続きが増大する。後者の例が分かりやすい。本来的には手続きとは循環構造であって、元に戻すための手続きであり、これは非線形的には可能である。線形的に元に戻す事は不可能なのだが、非線形的な復元の指向性は意識に潜在している。物質は、従って、非線形的に復元され続けていると見なせる。つまり同一性を保持するためには、非線形的な循環構造が必要である。我々は元に戻そうとする。懐古主義である。ノスタルジックである。未来も復元性で維持しようとする。
すると、そもそも復元性とは、不確実性の混入に対するための、非線形的手続き集合における、フラクタル構造の自動的な復元(修復)の性質であり、これが変化の起源と考えるのが妥当ではないか。
復元の性質によって、膨張し増える。
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1から1を引くと0になる、というのは考案された法則ではない。1-1=0は生得的法則である。この法則は、フラクタル構造でなければ成立し得ない。つまり数学はフラクタル構造世界の反映であり、表出だ。この意味は、数字というもの、それ自体が非線形的に循環構造として構造が保存され続けている必要がある、という意味だ。
非線形的循環構造による構造の保持・保存は、我々の記憶や知識に相当する。非線形的に構造が保存されていなければ、小学校の算数さえ解けない。これは当たり前の話だ。つまり、その1は常に同じ1として出現し続けている。たとえば、1について、1の定義を記しておいたとしても、1が再び同じ1として出現するには全く不足である。
つまり抽象概念や形而上的な観念においても、物質においても、構造が保存されていなければ世界に連続性はないのであり、両者は全く別の存在として考える事自体が間違っている。でなければ我々は、言葉を連綿として話し、思考を連綿と行うことも出来ない。