まずは、前回の矛盾から解消することにする。

 

前回の論旨:意思―構造は対象化されるべきでなく、一体として主体であるべきだ。

以前の論旨:意思―構造には間隙が在るべきで、間隙に主体が在る。

 

この矛盾は、間隙を時空的な構造として考えるために生じる。間隙も非時空的に出現すると考えれば矛盾は解消できる。これは屁理屈ではなく、当たり前の話だ。つまり我々は世界を対象として見ずに在るものを知るだけの場合もあれば(対象化せずに受容するだけ)、対象化することもできる(これは「注意」の発生だ)。行為も対象化と、非対象化は併存する。両者に時間的な違いはないのであり、間隙を意識していない時にも、間隙は潜在しているのである。間隙がなければ対象化はできない。もし間隙がないとするならば、それは真の同一であって、追随でも同期でもなく、それそのものであるという事だ。世界そのものであるとするならば世界は展開せず、従って世界は存在しないし、主体はおろか、存在すらないのであり、真の同一としての存在は現実には実在できない。

 

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{存在と非存在}、{固定と非固定}、{確信と疑念}、これらの{}でくくった二つの対立概念を含んだ概念と、対立する概念とは何か。直ちに思い浮かべる事ができない。なぜか?直ちに思い浮かべる事が出来ないし、非言語的なイメージさえ浮かばない。これはおかしいのではないか。これら3つの対立概念を含んだ概念構造と、対立する概念は同じであるように思える。つまり、それはあたかも、「無」から生じているかのように思える。つまり、これらの対立概念構造に対立する概念は、あたかも「無」であるかのように思える。

 

この中で簡単そうな、{確信と疑念}について考えてみる。主体と構造の分離、構造の対象化により、疑念が生まれる。疑念とは構造に対する反構造だ。疑念が先で確信が二次的に、あるいは自動的に生まれる。確信とは、反構造としての疑念に対する反構造である。疑念以前というものは、確信も疑念も無い。反構造が生じる前だ。それは、既知の知、暗黙知といえるが、この表現も対象化の産物である。または同期という考え方も対象化の産物である。これは一体である、同時であるという表現もやはり対象化の産物である。つまり言語表現は対象化に陥ってしまうので、『言語以前の非構造的表現として「一体である」』という矛盾的な言語表現で、やっと表現できる。言語表現は必ず二元論に陥る。言語はそれ自体が対立概念の構造であり、構造と反構造の構造だ。従って、対立概念以下、二元論以下には展開できない。「私は人間である」。これは既に二元論である事は分かりやすい。「それ」という表現も既に二元論だ。「それ」は既に存在している「それ」だからだ。従って「私」という表現が既に二元論である。「私は人間である」は、「私」の二元論と「人間」の二元論を含んでいる。言語は対象化によって生まれる。しかし、対象化しないからといって、言語的なものの元型が存在しないわけではない。でなければ、世界は記述不可能である。世界が記述可能であるのは、世界が記述的に展開しているからである。少なくとも、構造的には記述的に展開している。もっといえば、構造的である事と記述可能である事は同じだ。だから世界生成と言語生成は同じ生成原理に基づいている(原理という法則的な表現は本来避けたいのだが、ここでは便宜的に用いる事とする)。非構造的に見た場合には、非記述的に展開している事が予想されるが、我々は予想(あまり根拠のない予想とならざるを得ない)しかできない。

 

これを言い換えると、反構造以前に順構造はなく、順構造は反構造の反構造としてしか存在し得ない。構造以前(あるいは純粋構造)は完結性と完全性だが、それは順構造ではない。真実は虚偽がなければ存在しない。構造以前は真実でも虚偽でもない。やはり、そのような物や概念は現実には存在し得ないのであり、純粋構造は現実には存在できないと言える。

 

普遍文法というものは、単に言語文法に共通する生成規則ではない。普遍文法は物質を含めた存在全てに備わっている。それは存在の仕方だ。物質はそれを言語化できない。(当たり前の話ではある。)。生物において、主体と構造の分離が生じて、この時点で既に対象化は為されている。人間において間隙は広がり、「普遍文法という存在の在り方」、を対象化できるようになったのだが、つまりそれが人間的な普遍文法と見なされている。普遍文法とは、存在の全てが有する原普遍文法を対象化したものだ。主体としての存在の在り方という構造(=原普遍文法)を対象化した時に主体の構造(=普遍文法)となり、この主体の構造が、世界の構造の在り方を対象化した時に自然言語が生じる。

 

世界生成という記述が先行している。だから我々は記述できるのであって、言語習得が容易なのだ。

 

でなければ、言語が出現する根拠もない。言語の出現以前より、原普遍文法はあらゆる存在が有しているのである。また、人間においても普遍文法は言語化されているとは限らない。

 

前構造(あるいは構造以前)は完結性と完全性であり(従って現実には、この「構造以前」は存在しない)、それはあたかも無であるかのように見えるということではないか。つまり、この前構造という完全性に不確実性を与えた時、または構造に不確実性が生じた時に、反構造が生まれ、二元論的展開となる。構造にとって不確実性は疑念であって、不可知なものだ。それは構造的存在としての「我々の意識」がよく知っている。構造と不確実性が対立概念であるのではなく、構造に不確実性が生じた時に、対立概念が生じるのではないかと思う。そして概念的なものは、意識的な思索に止まるのではないし、それは単に記述可能性、想像可能性に止まるものでもないし、記述・想像は「先立って存在する」ものではないことは前記した通りだ。

 

もっといえば、世界生成も言語生成も、不確実性に先立って存在するのではない。不確実性の持つ恣意性が生成の出現である。生成の原理ではない。生成の出現は構造化されれば、生成原理という法則的な表現となる。

 

もっとも普遍文法は言語として出現するとは限らない。普遍文法は主体構造を規定するのであって、宣言的に利用する事も可能ではあるが、宣言的な利用をする必要もない。この宣言的な利用は自己や他者や世界に対する固定化であり、レッテルを張るという事になる。これは偶像化だ。固定化・偶像化は構造的機能だ。構造は主体を固定しようとするが、主体は自由である。

 

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世界生成の初期構造、物質の初期構造、原始生物の初期構造、以後の進化種の初期構造が連なり、人間の初期構造がある。段階はいくつもあるはずだ。普遍文法は、初期構造からの展開の方法だ。普遍文法は人間だけに適用されるものではない。言語文法の生成とは構造の生成だ。文章が構造の生成であるのは、言語文法に従っているためだ。当たり前の話ではある。自然言語の言語文法は普遍文法の反構造であり普遍文法より、より具体性を持っている。しかし、自然言語は、各言語とも、まったく異質の構造としては存在していない。(これも実は当たり前の話だ。つまり世界に出現している存在は、この世界において、全く異質なものとして存在してはいない)。

 

普遍文法は、構造が展開する方法であり、同時に構造の展開可能性に限定性を与えている。従って、鉄は鉄であり、酸素と結合して酸化鉄になる。生物はミトコンドリアを取り込み、哺乳類が生まれ、胎生になり、人類が出現した。非断絶的な連続的変化だけではない指向性を持っている。人類の出現は必然である。この指向性は我々の世界の不確実性の性質だ。ここで、結論だけ記せば、この性質は、道徳だ。だから人類が出現したのである。

 

普遍文法は構造の展開のメカニズムである。反構造の自己生成的な動性だ。

 

普遍文法は、主体としての振る舞い方を作らせる。振る舞い方を指示するのではない。振る舞い方を作らせる。その対象は不確実性に対してである。言語文法は、その反構造であり、他者に命令する。他の生物も含めた場合の考え方としては、世界への働き掛けの様式が、言語文法に相当する。物質は普遍文法しか持たない。

 

音韻も言語も不確実性を固定するための表象だが、音韻と言語は分ける必要がある。音韻はむしろ物質の初期構造である。音は振動によって生物が聞こえる表象だ。その振動、その周期性は、物質がその物質である事の、規定である。音韻が生得的である理由は、それが他から聞こえるものとして在るのではなく、それが主体を規定するものとして在るためだ。

 

音は世界に実在せず、振動の伝播だけが実在していて、生物は振動を音に変換する。では音は普遍性を持たないのか、他人と自分では聞こえている音が違うのか。ここは以前書いた通りに、不確実性の系譜によって共有している。だから概ね同じであると予想できる。人体構造や器官が同じだから、という理由ではないし、それが理由だとしても、同じ音を聞いている事の証明にはならない。これはクオリア問題でもあるのだが、同じ不確実性から派生した系譜的な不確実性を共有している事に拠って、世界を共有しているのである。従って音は内的な発露でありながら、普遍的に共有できる。

 

音韻は物質の初期構造であり、原普遍文法によって導出されると考える事ができる。音韻は、それが音として聞こえる表象であるのは、不確実性の性質であると言うしかない。

 

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構造があり、規則性は不確実性の生起によって現れる。不確実性と法則は一見して矛盾するが、法則とは不確実性の出現の痕跡として成立する。連続性とはその痕跡が保持されている状態であり、不確実性そのものではない。過去の不確実性の痕跡が法則であるならば、不確実性はさらに法則を更新し続ける。

 

囲碁に例えるなら、ルールは過去の不確実性の痕跡であり、これが初期構造であり、定石は初期構造後の不確実性の痕跡であり、実践者の打ち筋は、不確実性の顕現であって、不確実性の痕跡として構造化されていく。

 

廊下を走るな、朝礼でパンを食べるな。これは初期構造において、意味無き構造である。構造に意味を与える事で構造化されていく。初期構造では、目的の為には急ぐし、走りたければ走る、という因果構造だ。腹が減ったら飯を食べるし、朝飯を食べる時間が無かったから今パンを食べるのである。狭い廊下を走ると他人の迷惑になるから走ってはいけない、あるいは単にルールだから走ってはいけない、という因果構造は初期構造ではないということだ。つまり、初期構造に意味を与える事が新たな構造化であり、構造理解を超えた意味理解となる。

 

道徳的な行動は他の生物にもみられる。高度な推論は粘菌でも見られる。これは初期構造化されている。やはり対象化によって、この初期構造に意味を与える事で、道徳が顕在化したといえる。集団化、互恵性、も初期構造は意味無き構造である。かといって、人間以外が意味を与えることができないとは思わない。ここは、間隙の拡がり、速度差が生じる事に拠って、対象化が顕在可能となり、道徳が顕在化可能になったと考える。

 

伝子プールの多様性、近親交配の回避、これは初期構造では集団や種の繁栄の為だが、道徳にもなる。集団や種の繁栄、あるいは個体における死の回避、これは連続性というものが道徳の基盤であることを意味している。人間において、「人類の未来」というものを考えるのも、初期構造では種の繁栄だが、道徳でもある。

 

つまり、我々の世界は連続性と妥当性をもって変化する。この起源は我々の世界の不確実性の性質に外ならない。考えるに、この性質をもった不確実性でなければ、世界というものは存在し得ず、また展開も無い。このような世界しか、つまり道徳的な世界以外に世界というものは存在し得ない、と考えるものだ。

 

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