自由意志や意思決定という考え方は意思と行為の二重性を表現している。この考え方に従えば行為は自由ではないが、意思は、自由の余地がある。
しかし、意志を二重性で考える事が間違いであり、意志とは境界の無い出現であると考えるべきではないか。
意思(=決定)―行為。この考え方では、境界がある。意思=決定=行為。この考え方が出現となる。
構造は構造的意思(過去のモデル利用)を提案するだけだ。前回の考察で、構造的主体、意味的主体を分離したが、構造は意思には抗えないのであり、選択は意味的主体が行う。つまり原生動物も、構造的主体が優勢に見えるが、意思として活動している。
二重性で意思を考えてしまうと、二元論の心身世界を構築するだろう。つまり、どのような人も意思を出現させているが(この表現も二重性であって「どのような人も意思として出現している」という方が適切だ)、構造的な因果関係を対象化してしまうと、「自己同一性」という概念を考案してしまうだろう。自己同一性も二重性の概念だ。
構造的に見れば二元論だ。しかし、意志の在り方としては出現である。意思は人間において自覚が可能になったのである。つまり構造との距離を置く事によって、構造を対象化し、世界を対象化し、世界の道具性を見つけることができるようになり、また自己の構造さえ、その道具性を見つけてしまうようになった。意思の自覚は、意思の対象化であり、意思の構造化だ。意思は自覚が可能になった、というだけであって、意思を自覚する必要はない。むしろ、正常な精神の在り方としては、自由意志という自覚は不要だ。自覚ではなく当たり前のものとして、意思を実行しているのではなく、意思が選択しているのでもなく、意思として意思が出現しているべきである。主体が意思そのものだ。主体は疑い無き主体でなければならない。内省は意思を対象化して対して行うべきではなく、結果を対象として行うべきである。たとえ原生動物でも自己責任によって活動していると言える。
「べきである」とは、正常な人間精神の在り方、精神の安定性を維持するため、という意味だ。あらゆるもの、あらゆる現象は対象化可能であるが、自己の対象化は主体の出現または意志の出現に対して行われるべきではない。「選択」は選択ではないという無自覚さこそが求められるのである。選択も二重性の考え方だ。意思も意思ではないという無自覚さが求められる。つまり、そのような構造化された概念や定義をあえて、意識に上げる事は、主体の多重性、意志の多重性をもたらす可能性がある。たとえば、『危機的状況で「選択を迫られる」』という記述的表現、叙述的表現がある。記述はそもそも構造化の結果だ。この記述表現は選択の二重性、主体の二重性、意志の二重性を強く印象付けるものだ。構造化してしまうと、あらゆる事が二重構造になってしまう。二重構造は、さらにいくつもの二重構造が展開可能であり、()で説明すべき入れ子構造は無限に生じる事になる。
対象化とは構造化だ。構造は偶像となる。意思決定という考え方では、意思決定主体が偶像となり、また行為主体も偶像となってしまう。
前回までの論考と矛盾してしまい、また、私が、このように文章を記す事も自己矛盾しているのだが、構造化は際限なく行われるべきではない。少なくとも、研究者でない限りにおいては、自己分析は慎む必要がある。自己分析は、構造依存となる。自己分析を進めて現れるのは、いくつもの構造であり、そのどれかの構造に、意思決定の責任を負わせるのである。この責任の所在を求め続けるパターンは二つある。自己に求め続けるのか、それとも世界や他者に求めるのかだ。前者は過剰な自己批判となり、後者は過剰な他責思想に陥る。
というのは極論だ。バランスとして過剰な追及は慎むべきだという趣旨だ。そして、偶像依存というのは、日常的な人間の活動形態だ。これは社会性の為の様式である。儀式的である場合もある。敬語は、その典型例だ。敬語を利用する根拠は、主体は持たない。まず、社会という構造の偶像がある。社会の偶像に適合した偶像を自己に創出する事に拠って、社会と自己の構造という偶像を、構造的に保つ。このため、言葉という偶像を利用する。そして行為という偶像を利用する。
つまり前回までの論考で書いてきた反構造を、本稿では偶像と呼称を変えただけだ。
それでも、私はさらに構造化を続けようと思う。意識主体は、やはり偶像である。意識主体の座が偶像として在る。夢遊病の自動行動や解離性同一性障害の記憶無しであっても、やはり意思によって行われているはずだ。ここは難問なのだが、物質でさえ、恣意性によって存在している事を考えれば、あらゆる行為は恣意的である事は否定できない。またタコには意識があると言われているが、タコには完全体の唯一無二性を持つ意識主体という考え方をあてはめる事ができないはずだ。人間的にタコを観察すれば、タコは完全体としての意思を持っているかのように見える。にも関わらず、腕が自律性を以て活動する。タコにおいて、意識主体という偶像をあてはめることが間違っている事は明らかだ。タコの腕と完全体が、全体性を持ちながら局所性も持っているのは、不確実性の系譜が完全性をもたらしている事を示唆しているのではないか。恣意性は不確実性の性質だ。また我々の世界の不確実性は、連続性を持っていて、破滅的な断絶性を持たないという性質を持っている。構造は独り歩きしない。必ず意思を伴う。
構造的に考えると因果関係が見えてくる。しかし、この現実は構造的であって、因果関係が成立している。それ単独では何事も成立しないのが現実だ。「それ単独」と言う時の「単独」でさえ、分解すれば因果構造だ。複数の構造が同時的に同じ一つの因果構造として成立しているように見える時、これを統合性と称するのだが、「統合」とは非常に曖昧な表現だ。因果関係は存在せず、因果関係が在るように見えるだけだと考えた場合に、これは決定論になってしまう。しかし、この決定論という考え方もまた構造に囚われた考え方だ。つまり、自由意志も決定論も因果関係なくして現実は成立しないという構造的なものの見方だ。決定論という考え方も、やはり再考する必要があるだろう。
タコの各腕と完全体は、命令系統という因果関係とは別の様式で活動している可能性を示唆する。敷衍すれば、因果関係とは別の様式が、現実というものを成立させている可能性も示唆する。
しかし、私は、青は藍より出でて藍より青し、の言葉のように、現実が低層であるとも考えてはいない。むしろ、現実は道徳の顕在化という役目を果たしている。我々も構造であり構造を逸脱できず、その様式は理解不可能かもしれないが、
因果構造で考えれば、神でも、進化論でも、ビッグバンでも、シミュレーション仮説でも、どれでもいいということになる。それらは実は矛盾せずに併存できる。構造的解釈の違いは矛盾せずに併存できる。