(前回までの考察で命が基準である事を書いたが、それは間違いではないものの、本稿で修正を加えたい)

 

無意識は世界と命の等価性で基準を創る

 

 絶対値はこの世界に実在できないが、絶対値があるかのような世界を構築することは出来る。原「私」は意味を最小単位の基準(絶対値相当)とする事で、世界を構成するが、無意識は意味を扱えず値しか扱えない。無意識は世界を比率と倍数で構成するが、それだけでは、異なる物や異なる事象同士の比較対照ができない。しかし、無意識的比較や照合は確かに行われているのであって、それは欲望として現れる。

 

 無意識は命の価値を知っている。それは絶対値ではないが、絶対値として利用できる。自分の命は、世界の全てと等価である場合に、絶対値を持たなくとも絶対値に類似した値を持つ事ができる。

 

 確定は、無意識と私では意味が違い、無意識的には価値を与える事であり(見出す事)、「私」的には意味を与える事だ。前者が原理的で、後者が不確実性を持つ。どちらをやっているのかは、自覚が困難だろう。これは時空を創出する事と、時空を回収する事が、境界性を持って同時的である事の矛盾とも連動する。時空の回収は無意識による原理化であり、時空の創出は原「私」による自由化である。

 

 無機質な一室で食事だけ与えられて育てられた人間は、命の価値を高くはできないだろう。唯一といってもいい命の価値は食事だ。従って、欲望こそ命の価値を表す。世界を知れば知るほど、世界が拡がれば広がるほど、命の価値は高まる。人が密林から抜け出し、地上を歩き始めたのは、世界を拡げるため、命の価値を高めるためだ。またこれは原生動物から人間に至る進化の流れにも当てはまるのであり、世界を拡げて自分の命の価値を高めようとしたのである。欲望の対象を探し求める事と、命の価値を高める事は同じだ。比率的に疑似絶対値によって世界を創る事は、必然的に比率的な欲望への指向性を強めるのである。欲望の大きさというのは命の絶対的価値となる。

 

 しかし、この欲望の拡大は、原「私」が選択し続ける事と境界的に同じである。先行しているのは原「私」の選択である。提示されただけでは選択が無い。ごちそうが目の前にあっても、選択がなければ永遠にごちそうを見続ける事になる。確率の提示と選択は、ステージの異なる変化であり、そこに連続の必然性はない。

 

世界の全てが命と等価値を持ち、ともに1だとすれば、絶対的な基準値なしで、この世界の異なるカテゴリーの物や事象同士を比率的に比較対象の世界とすることができる。主体においては、命を分割して対象に価値を付与する。これは対象から命の価値を与えられる事と同じだ。対象から欲望の喚起と欲望の強度を指示される事は、自分の命の価値を高める事だ。

 

世界と命が等価であるとしても、ともに有限である事が規定されるだけだが、これは絶対値を持たなくとも、絶対値を持つかのような世界を構築できる仕組みだ。ある世界に絶対値が実在できる場合には、外部世界の存在が必然的に予定され、その外部世界が絶対値を与える権限を持つ。この階層の連鎖は終わりが無い。従って絶対値というものは、いかなる世界にも実在できない。

 

異なる物同士の比較対象を行うには普遍的で絶対的な基準を持たなければならない。それが命であり、世界の構成物の命への近接度、類似度が、対象物の絶対的価値を規定し、比較できるようになる。命の絶対性は、命と世界が等価である事によってのみ成立する。命が失われれば世界は消失し、世界が消失すれば命も失われる。世界は命に価値を与え、命が世界に価値を与える。

 

この構成では、絶対値の実在無しで循環型(世界と自己との相互循環)の閉じた世界を創出できる。いかなる世界、いかなる系、いかなる場においても、絶対値の実在を証明する事ができない以上は、この構成意外には世界は実在し得ないということになる。つまり内部では絶対値を証明できず、その外部が証明を与えたとしても、階層性を有する場合には、さらに上位の階層が予定される事が必然となるので、内部に証明を与えた外部は内部としてさらに上層の外部から証明を与えてもらう必要がある。

 

この価値循環型世界は、階層的な証明構造を拒絶できる。つまり循環論法が価値を伴うという事だ。その基準価値は1である。この1は疑似的な絶対値となる。この価値循環型世界には、外部からその価値を与えてもらう必要が無い。また、この循環構造は物質的合理性だけでは成立しない事も分かる。世界は観察者である生物から独立して存在することはできないという意味だ。ただ1の現実である事を信じる事だけが必要である。価値を与える事と価値を求める事が同じである。つまり、閉じた世界を構築しているのは生物である。

 

この価値循環型構造のひな型はフラクタル構造だ。フラクタル構造では部分性が全体性を表わし、全体性が部分性を表す。あらゆる物質は全体の価値を持ち、全体はあらゆる物質との対比において等価である、という循環型構造と同じではないか。世界は類型的に生成される事は、経験則でさえ、それを明らかにする。何も科学的態度だけが、世界の類型性を世に顕すのではない。同じ原子の集合は、小さな集合でも大きな集合でも同じ形を表す結晶という集合様式が在る。形状が、価値を表している。形は度量衡に比すべき価値の表現形だ。また、集落の構成、町の構成、都市の構成も類型的だ。初めて見る土地でも、地図無しで、行くべき方向がだいたい分かる。既視感は世界の類型性によるものだ。概ね世界は同じ作り方で、概ね世界は同じ事が繰り返し起こる。既視感が生じた時に、決定論的な運命感覚を持ってしまうのは、世界の形状的な類型性は世界の決定論性を表わしているからだ。世界の決定論性とは、世界の原理再現性である。また歴史が同様の形式で繰り返されるのも世界の決定論性と原理再現性を表わしている。これらは周期性でもある。周期性というのは、同一性の比率的変化であり、変化ではない変化だ。つまり変化していても同一の性質を持つという意味だ。フラクタル構造は空間的な再現性の構造であり、周期性は時間的な再現性の構造だ。あるいは周期性とは時間に組み入れられたフラクタル構造ともいえる。しかし、世界はフラクタル構造と周期性に、完全に、絶対的に支配されているわけではない。もし、フラクタル構造と周期性に支配されているならば、つまり無意識に支配されているならば、世界は絶対的な予測可能世界に見えるだろう。しかし、その世界観はあっという間に挫かれて、存在の場を失うだろう。予言者は無意識という緻密な計算機で原理再現性に基いた未来を見るが、不確実性によって、その未来は弾かれる事になる。別の予言者は不確実性を敵だと見なし、あるいは悪と見なして、不確実性を殲滅しようと試みる。この不確実性とは、普通の人々だ。毒入り菓子を店舗に混入させたグリコ森永事件、オウム真理教の無差別テロ事件は不確実性に対する脅迫である。また同様に自分の主義主張は世に蔓延すべきであるし、蔓延しないのはおかしい、と考えるのもフラクタル構造の世界観を持っているからだ。

 

命と等価になる世界は知見のみで構成される内部世界であり、この内部世界を1としても、この1の価値や、最小単位の絶対値を決める権限は、外部の他者が有する事になる。この場合に、外部の他者の最小単位の絶対値が、自分の内部世界の最小単位の絶対値となる。(他者の存在によって、循環型の疑似絶対値の価値が揺らぐ。他者は外部である為に自分の命の価値や自分の世界の価値を確定する権限を持つのである。絶対値が値であると仮定した場合に、階層構造を回避できないためだ。この場合、階層の位置は自分が上層か、外部が上層か、のいずれであっても、自分に決定権はない。必ず階層の板挟みととなる。自分が上層であるとした場合には、さらに上層に他者ではない何者か、あるいは超自然的な存在、または決定論が仮定されてしまう。ここは能動的推論となる。他者が絶対値を持っているという事が論理的な必然である事が、能動的推論を行う根拠となる。つまり無意識は疑似絶対値ではなく、具体的な数値を確定しようとするのである。しかし、この数値は永遠に確定しない。最小単位の絶対値が数値として提示された場合には、その提示は絶対値ではない事が確定しているからだ。絶対値は実在できないのである。従って、数値しか扱えない脳は延々と推論を繰り広げる事になる。「脳は数値しか扱えない」という表現を私は度々行うのだが、これは脳は論理的で計算的であるという意味の比喩表現だ。能動的推論とは、システムが自らの内部モデルを維持し続けるために、予測誤差を最小化するように行う推論と行動のプロセスというのが一般定義だ。このプロセスは、私の理論と整合性があり、最小単位の絶対値を確定しようとする事と、予測誤差を最小化しようとすることは同義だ)。ところが、この関係は、自分が絶対値を持つのか他者が絶対値を持つのか、という問題となる。他者が外部であり、上層としての関係性を持っているが、自分が絶対値を持つという関係構造を信じている場合には、自分が上層になり、他者の絶対値を規定する。この場合、自分は階層の中で最上位に位置するのだが、この階層構造では、自分の上層に、さらに絶対値を規定する誰か、たとえば神を規定せざるを得なくなる。他者を信じ、集団や社会を信じるのでなければ、予定された全知全能者である神を信じる事になる。この場合、自分の世界の価値は肥大化し、ある者は神の代理人を自覚すことになるだろう。神が予定されているのは、階層構造では必ず上層が予定されるからだ。

 

 

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決定論的世界と自由世界

 

 というのは、無意識は世界と命を基準とする事で、世界を比率的合理的世界を構築できる、という話だ。つまり、そのような世界は存在する意味が無い決定論的世界だ。全てを司る神が予定され、死後も予定される。そのような世界に存在する理由、意義、意味は、少なくとも私には感じられない。だから脳は主体を錯覚させている、と考えるのも誤りだ。脳の活動は痕跡に過ぎない。脳の活動を調べても決定論的世界が浮かび上がるだけだ。

 

 命とプライドは、しばしば天秤にかけられる。そのような状況に遭遇する人は稀でもない。戦場に赴く人は常に天秤にかけているか、天秤にかける事を回避している。戦時下や治安の悪い地域に住んでいるわけでもない場合には、警察や消防が、そのような状況に遭遇する可能性が高くなる。しかし、ほとんどの人は遭遇する事はない。強盗で軟禁状態になる事は稀である。またあえて危険地帯に冒険に赴く人は、そのケースに遭遇する機会は多くなる。山で遭難を自覚してヘリコプターの救助を呼ぶ場合に二つの見方がある。一つは、プライドより自分の命が勝ったケースだ。これは無意識の勝利、決定論的選択の勝利だ。しかし、自分の命に他の命や、自分の命よりも重大な意味が含まれている場合にはプライドが勝ったケースだ。これは矛盾しているように見える。この矛盾を表現する二つの諺がある。一つは、武士は食わねど高楊枝。一つは、据え膳食わねば武士の恥。前者は欲望に忠実である事はプライドを損なう事を表現している。後者は、恥をさらしながら生きる事はプライドによって支えられている事を表現している。三浦雄一郎氏は自分の命が惜しいためにヘリコプターで下山したのではない。では何のためにか、と私に問われても困る。ただ三浦氏を見れば、自分の存命の為ではないということだけは分かる、ということだ。

 

 

プライドを傷つけられると怒りが生じる。怒りは数値化が可能(マッピング可能)な比率的指標だ。怒りの最小単位の起源は命となる。価値が肥大している場合には、激しい怒りとなる。しかし、プライドは数値化不可能である。プライドは意味であるからだ。怒りが生じるべき脳の反応は、命が脅かされた時の反応である。プライドの指標を無意識(脳)は持たないために、命が脅かされた時の反応を代用しているのである。命が脅かされるのは、現実世界という場における実在の脅威だ。一方、プライドの実在の場は現実世界ではない。比率的世界に、プライドの場は置かれてはいない。プライドは意味的世界に置かれている。意味的世界の場における実在の脅威が、怒りを生じさせている。従って、プライドの無意識(脳)における比率構成は、そのプライドとの同一性を持たない。だから脳ではプライドを理解できない。だからプライドを言語的に説明することは出来ない。プライドの説明は、もし理解可能性を持って説明できるのであれば、それは間違っている。プライドの説明は言語的、論理的には理解不可能である必要がある。

 

※確定性の欲求とは、脳がマッピング可能な指標のどれかにあてはめてマッピングしようとする事だ。従って欲望以外の対象(意味を含む対象、意味の関係で構成された対象)をマッピングしようとすると、必ず何かが欠けることになる。戻って考えてみると、あらゆる表象は意味を含むのであって、単に欲望性(階層性)だけを表わしてはいない。だから意味の照合に拠って、我々は常に満たされない。しかし、逆に意味の照合に拠って、対象が表象的に表現している階層性(欲望性)以上の満足感を得る事もできる。脳が比率的な照合を行った時に、意味が非比率的に、照合に際して絶対的な価値確定権を持っていると考えられる。文章が矛盾しているように感じるのだが、意味は脳の比率的マッピングには出現できない(意味は数値や比率ではない)が、 その照合結果に対する価値の最終的な確定権を持つ、ということだ。

 

命とプライドを秤に掛ける時、命は価値は知見の世界の全てである。ではプライドの価値は? プライドが勝つ時、その価値は命や世界の全てを凌駕していることになる。プライドは実在の場を規定している。実在の場は現実世界を超越した価値を持つことができるということだ。この場合、実在の場の価値の総量は知る必要が無く、実在の場が現実世界及び命より大きな価値を持つという事だけが分かればよい。

 

現実世界を実在の場の最上層としている場合には、命が勝つ事になる。その場合、価値の循環構造によってプライドの価値は命未満となっている。

 

このプライドの在り方を考えてみると、意思決定、選択は、このプライドによるものではないかと予想できる。つまり、世界の価値を凌駕した瞬間が意思決定であり選択の瞬間だ。危機的事態は、この選択の構造が意識的に明瞭になる状況だ。意味は世界や命の価値を超越して価値を持つ事が決まっているという事なのであって、それが自由意志を規定するだろう。必ずしも、または常には、プライドによる意思決定は行う必要もないだろう。

 

プライドは命を担保に、不確実性を実行し、即ち自由意志を実行し、自由世界を実現する原動力である。

 

武士道精神を表わす、「武士道は死ぬこと」という言葉がある。この矛盾的な言葉が成立するのは、現実に命をもって生きること真に実在する事とは別であるためだ。命を持って生きる事は、実在を意味しないわけではないが、内部世界に実在する事のみを意味する。我々は内部世界に外部的に存在する事によって時空を経験することができる。内部に同期して存在した場合には、永遠に一瞬の今の固定されてしまうことになる(参照:「「私」には時間がない。しかし、「私」が時間を与えている。という構造」、「意味的同一性、価値的同一性」)

 

武士道精神は真に実在している外部に、実在の場を見つけるべきだと言っているのである。実在は、命の有無とは無関係である。実在は、ただ一瞬の実在証明を求める。しかし、この武士道精神は原理主義に利用されたプライドである。忠君という原理主義である。脳(無意識)は、オキシトシンを分泌する事によって、実在の場を確定させる。真の実在の場は時間も空間も持たない外部(内部に外部性を持って存在するという意味の外部。以下、内部と外部は同じ意味で使用する)である。生まれてすぐに、オキシトシンの分泌が多いのは、実在の場を確定させるためだ。実在が確定した世界が1となる。この世界は命と等価だ。しかし、むしろ命が何であるのかが、ここで確定したといえる。世界が何であるのかとは、現実感を有する現実である。時空を持たない外部は世界が何であるのかを確定させる手がかりを一切与えない。なぜ私が断言できるのかと言えば、時空を持たない世界、または場というものの想像不可能性を感じる事ができるからだ。出生後まもなく、実在の場は、時空を持たない外部から、時空を持つ内部に移行するのである。この内部世界は、境界を持つ事によって命の有限性を表わしている。世界の境界は、知っている事と知らない事の境い目に在る。知覚の及ぶところと、及ばない所の境界である。しかし、外部視点では、内部的な有限性は無視することができるので、無限性を与える事ができる。最小単位を決める権限を有するからだ。この内部世界の価値は無限に小さくなり、また無限に大きくなる。しかし、最小単位が価値や値では階層構造の無限後退に陥る。内部は、前記した通り、命と世界の等価性というフラクタル構造で無限退縮を阻止しているが、外部は最小単位を「意味」とする事で無限退縮を阻止している。外部的には命の有限性とその価値は、意味が規定するということになる。ここで外部に実在する「私」が、武士道を顕現させる根拠が提示できたと思う。以上の構造は複雑だが、内部は境界を創ることによって命の有限性を、「私」に教えている事は理解できる。内部の「私」と外部の「私」は同じ「私」だが、「私」は通常、内部の「私」として実在している、という感覚を得ている。

 

1にしないものとして「私」が存在する。このために1が動く。命と世界が等価あるだけでは、内部で無限のパターンが存在しえるが、それは現実化を伴う必要が無い。1のフラクタル構造だけでは、「私」は非実在である。「私」が1にしない者としてフラクタル構造の内部に外部的に意味を与える事で、世界には比率操作が自律的に相互的に生じてくるのであり、これが世界のダイナミクスである。

 

進化の流れは無意識と「私」の合致点の刻印である。刻印は表象的に遺伝子に刻印される。(しかし、遺伝子はその刻印の全てを持たないはずだ。遺伝子は表象即ち物質的な特徴の設計図に過ぎないだろう)。獲得された習性が合致点という事だ。集合化、集団化も、原理的合理性(無意識)であると同時に、道徳(原「私」)を持っている。無意識は1にする事を目指し、これが非実在である。集団化は個(原「私」)の喪失である。絶対的な従属は個を実在させない。単体では、境界を創る事によって、1の相互循環構造となり世界と個の同一性が成立し、個を喪失させる。個単体の世界については、個の命と世界が等価であるために個は世界に従属する事になる。しかし完全なる従属性の世界は存在しないし、時空も必要なく実在する価値もない。最小単位のない世界に意味という数値化できない最小単位を与えることで、無意識世界には1に欠損や過剰が生じ、比率操作が生まれる。意味は無意識が完全に数値化できないために、1の欠損や過剰が生じるのである。

 

個の価値循環型構造は欠損を補い過剰を与えるために世界を拡げる。進化の流れは原「私」が主導してきているのであって、原「私」が最小単位に意味を与える度に、無意識は全体を1とするために、進化的機能を創出する。ただ、原「私」と無意識の性質は、表象的には同一的で境界的だ。対立しているが同じ方向に向かう。進化の全てについて説明する気力を私は持たないので、複製・再生産と、集合化についてだけ書きたいと思う。前記に従って、いずれも原「私」の不確実性、自由世界への渇望が起点である。

 

境界を集団の世界とした時に、従属性が生じるのは原理であるとし(詳細な説明はここでは省き前提するに留めるという意味だ)、集団という世界レイヤーでは個は1である事を放棄し、集団を1とした比率となる。しかし、個は1である事を完全に放棄したわけではない。自己完結している世界は依然として1である。食や排便、あるいは内臓機能、身体機能という基本的な生存に関わる分野は依然として個の命と世界の1対1関係の価値循環保存、と価値の欠損及び過剰によって、活動が生じている。自律神経や本能と呼ばれる領域では個の完結性を指向した世界(完結はしていない)が保持されている。

 

蟻や蜂のように集団への強い従属性がある場合であっても、個の生命を維持するための世界は保持されているのであり、この世界は実在的世界だ。集団は人間においては、観念的な境界を持つ非実在的世界だ。蟻においては、集団が果たして非実在的観念であるのかと考えた時に、観念と言う抽象概念を持つ事は不可能である事だけは分かる。しかし、観念の前段階に相当する何かの存在を仮定せざるを得ない。なぜなら、集団に従属する事は、個の生命には直接的には影響を与えないからだ。具体的には、さぼったからといって死ぬことはないし、呼吸停止することもない。だから蟻の従属性を本能と規定するのであれば、本能とは観念のようなものを含んでいる事になる。本能は生命維持活動とは別の次元に存在するレイヤーである。本能とは不確実性の出現が固定され原理化された原理である。

 

そして集団化は従属性を持つ限りにおいてフラクタル構造の同化原理に合致している。不確実性と同化原理の合致点が本能として、または機能として、進化的に獲得されるということだ。ここで最初の仮定を閉じる事ができたと思う。

 

さて、さぼる蟻や蜂、出かけたまま帰ってこない蜂や蟻は一定数存在する事が確認されている。これも不確実性である。さぼる蟻は合理性を含んでいて、種とコロニーの原理に固定されている。帰ってこない蟻や蟻は本能や種の原理に固定されているのかは不詳である。出かけたまま帰った来なくなった蜂や蟻が、どこかで独自の進化を遂げているのかどうかは不明だが、少なくとも私の知見にはない。交尾の時にだけ他の蟻に接近し、交尾が終わると解散するという、熊のような蟻が存在する余地即ち生態的な隙間があるかのは不明だ。しかし、それでは蟻ではないのだろう。蛍かコオロギなのだろう。しかし、この帰ってこない蟻は道徳を実行したのだが、それを知ることができない。ただ道徳を実行した事を知る為の「意識」という構造化メカニズムを持っていないだけだ。つまり、蟻も選択しているのは原「私」である。ただ大方の蟻は原理に従う事を選択しているだけである。

 

「出かけたまま帰ってこない蟻や蜂がいる」または「さぼる蟻や蜂が居る」という事が、私には「面白い」と感じるのだが、これは私が自由意志に強い執着を持っている事を意味する。そして、この感覚は、私固有の異常な価値感に基づくものだとは思えないが、普遍的な価値観だとも思ってはいない。では一定の普遍性を持つと仮定しておく。面白いと感じる事は、そこに道徳が顕在化している事を表している。規範への従属も道徳であり、規範の逸脱も道徳である(ここは前記した本能化される不確実性と、本能化されない不確実性の違いの別の表現だ)。この矛盾は、原理(規範)への従属が原理である場合と、原理への従属が道徳として(あるいは自由意志として、という表現でもよい)行われているかの違いがあるからだ。原理への従属が原理である場合とは、例えば本能的行動であり、人目を気にしない犬の交尾を見るのは滑稽に思える。犬でなく人間でも、このケースは滑稽に思える。本能や生理現象に忠実である事は滑稽であり、羞恥の対象だ。排便もそうだし、本来的には食事もそうだ。自分の原理的性質に羞恥を覚えるのは、人間が道徳を自覚できるからだ。

 

別の視点を設けてみると、集団的従属原理に忠実な蟻は、私には滑稽に思える。一所懸命に女王蟻の為に働く蟻が滑稽である。私は馬鹿にしたくなる。擬人化する必要性さえない。そしてさぼる蟻や帰ってこない蟻が居ると思うと、滑稽ではあるが、頼もしくなる。共に面白いのであるが、片方は侮蔑の対象としての面白さであり、片方は尊敬すべき対象としての面白さだ。また、この感覚は私と、私と価値観を共有できる人の感覚である。蟻の従属性を馬鹿にすべきではないと真面目に考える人も、実は私には滑稽で侮蔑の対象だ。この人は原理に忠実である事を、侮蔑すべきではないと、道徳を利用して考えているのだが、それが滑稽に思えるのである。つまり、真面目な人は、面白く侮蔑や嘲笑の対象となる。お笑いやコメディにおける「笑い」の生成原理は、この原理主義者の滑稽さである。原理主義を信じて疑わず羞恥を感じていない事への批判的態度であり、道徳の顕現である。もっとも、私は嘲笑の対象であったとしても、そのことを直接的に本人に対して表現する事はない。それも道徳だ。しかし、表現してしまう事も道徳である場合もある。このような階層的で、反映的に道徳と道徳への反証構造は連鎖していくのは、人間特有だろう。もし、嘲笑の対象が生得的な理由に拠って回避不能な原理従属性を表わしているのだとしたら、それはもはや嘲笑や侮蔑の対象ではなくなるが、これも人それぞれだ。

 

総じて自由意志は道徳である。人間の創った表象的世界は、全て道徳の顕現でもあり、また原理の顕現でもある。矛盾的に二つの意味を持っているのである。矛盾するのは、よって立つレイヤーが人それぞれで違うからだ。基本的な価値観や道徳が共有されていたとしても、その上に何層もの反証レイヤーが張られているのであって、層を共有できる者同士でなければ、理解し合えない。原理主義者は単純構造で、多層の反証レイヤーを無視するので、分かりやすい性格だが、理解は双方にとって選別的だ。表象的には世界は原理で形成される単純構造だ。しかし、意味的には複雑極まりないために、そこに道徳が出現する。

 

自由と人権尊重の矛盾は、反証レイヤーの違いから生じるのではない。もっと根源的な場の違いである。人は自由であるべきだが、他人の人権を侵害してはならない。ここで人権尊重は自由をはく奪している。この矛盾の併存の理由は一つの場での天秤では計りかねる。自由は実在の場が原「私」の場であり、内部の外部である。真の実在の場である。人権尊重は、命を基準とした現実世界即ち内部世界が実在の場である。人権尊重は自由を牽制し、実在を牽制し、不確実性も牽制する。これは動きが生じない閉じた構造であって、原理支配だ。実在を否定している。実在を否定している場は現実である。同時に人権尊重は、自由を保証し、実在を保証し、不確実性も保証する。実在を保証している場は、真の実在の場である。つまり原「私」は常に自由であり、不確実性を行使して選択している。表象が現れる現実世界(内部世界)は、原「私」の選択後の世界である。原「私」の自由は既に保証されているのであって、明文化する事によって矛盾が生じるのである。

 

裁判は命を1とした内部世界の天秤である。それを如実に表すのは死刑制度だ。死刑は極刑とされるが、むしろ慈悲的であると感じる。この違和感を普遍的な理解を求めるために表現するとするならば、長年にわたり拷問を与え続ける事と短時間、一瞬に死に至らしめる事のどちらが慈悲的であるのかということだ。従って、死刑の趣旨は懲罰的な意味を含まないだろう。むしろ長年の独居房こそ、拷問的であり、死刑を凌駕する懲罰的な意味を持つ。自由は現実に行使する必要はなく、ただ存在し続けている事が自由の行使である事を知る事は困難であるからだ。原「私」という不確実性即ち自由は意識のある限り継続するのであって、言い換えればそれは意識の在る事によって選択が行われ続けている事を証明しようとしているということであり、現実にあたかも選択のようであるかのように見える選択にとらわれる必要はない。これは実在の場を、現実から真の実在の場へ移動する事だ。原理主義、物質主義(欲望に支配されている人)は精神を病むだろう。かの宗教団体の創始者は、独房で精神を病んだが、彼は、欲望に囚われていた事を証明しているのである。

 

 殺戮のただなかに身を置くと、それは自身の命を賭した真剣勝負という意味だが、実在の場を真の実在の場に移動することができる者が現れる。武蔵と柳生は戦国の世を経て、ともにその境地に達している。武蔵の「空」、柳生の「平常心」は通じるものがある。共に実在の場を現実から、真の実在の場に移行することを意味している。一方で、他者を操作して殺戮を行わせる者は、その境地には決して到達しない。また真剣勝負を行っていても必ずしも真の実在の場に移動する事ができるわけではない。殺戮に快楽を求めるようになる者も現れる。殺戮を従属性によって行う者も現れる。これは無意識の原理支配、感情支配に囚われた者だ。しかし、ともに原理支配である。

 

 無意識は命を人質に原理支配しようとしている、という構図がある。(ただし一つの側面である)。

 

 人になつくワニは不確実性、自由を体現している稀有なワニだが、その道徳性を自覚できない。人間のような意識を持たないからだ。そしてワニの不確実性は原理化されて再現されているのである。哺乳類になると、多少は道徳性を自覚している。優しそうな犬は優しそうに見えるのではなく、自らの道徳を多少は自覚しているのである。

 

 彼は原理支配された原生動物だ。逮捕される際には、一人、予め設計された隠し部屋に隠れて難を逃れようとし、逮捕の際は威厳さえ失っていた。この行動は原理支配の賜物であり、一切の道徳が失われている。キリストは人はパンのみで生きるにあらずと語っているが、これは欲望を肯定しているのではない。これは、加減を知るべきである事を述べている。この一言から彼は原理主義者ではなかった事が窺える。彼も実在の場を真の実在の場に移行していたであろう。

 

 現実は表象で構成されていて、それらの表象は原理支配されている。従って、それらは存在しなくとも存在していてもどちらでもいい存在である。時空を以て、改めて出現する意味が無いという意味だ。虚構的である。虚構ではないという前提を信じて疑わない事が現実の前提であるために、そのままでは虚構の枠組みから逃れられず、証明不可能だ。このため、原「私」の実在を証明するのは僅か一瞬だ。それは現実の死の瞬間とノンレム睡眠の瞬間である。肉体と原「私」が消える事によって、この境界的瞬間に原「私」と肉体が実在していた事が証明されるのである。死後の世界などはない。原「私」は唯一無二の不確実性である。この不確実性の抽出方法は、不明だが、これは不確実性の性質としては正しい。ノンレム睡眠は下等な生物にはないが、その前段階的な(未発達という意味で)神経休止状態は確認されている。

 

多細胞生物の完全体における主体としての原「私」とは、各細胞の原「私」という不確実性が創り上げた不確実性である。細胞は死を逃れるために、主体の睡眠中も絶え間なく原理支配を受けている。しかし、意識主体としての原「私」は、一瞬の実在証明を一晩に何度も行う(ノンレム睡眠とレム睡眠のサイクルに拠って)。この多細胞生物における睡眠も、無意識と原「私」の折衷的な合致点だ。完全体の細胞は合理性という原理的な法則に従って集合し、同化を目指し、しかし、それは代償であって、不確実性の密度の高い意識主体を作り上げて、不確実性の実在、自由意志の実在を信じるようになり(自覚的に自由な存在となる事)、また不確実性の実在証明を繰り返すのである。

 

複製は不確実性の原理化によって行われる。我々が最初の生物の複製であるということは、最初に記した世界構造、差異ではない差異の構造に組み入れられていて、少なくとも、そこから逃れてはいないという事だ。我々の世界は最初の原生動物の世界の延長である。種の分岐と種の保存は、種の原理化である。これは無意識の修復の限界(同一に戻す事の限界)と、原「私」の不確実性が先行している事を示している。構造としては以前書いた通りだ(参照:『原「私」の転写』)。

 

 

この図は今を基準としたミクロ的な視点の図だが、マクロ的にも、原「私」と、無意識の関係性を表現できる。

 

差異が次々に投入されて、生物に多様性が生まれ、その差異は歴然と明瞭化した事は、境界による同一性の許容範囲を逸脱しているのであって、ここは同一化の圧が掛かる。その圧は差異の投入と比例しているはずだ。

 

我々は一般に、あるいは定常発達した人々は、この世界、この現実を現実だと考えている。

 

現実の現実感とは一体何か?現実感とは、現実が現実であると感じる感覚に過ぎず、現実からその普遍的かつ絶対的な定義(世界を超越した普遍性を持つ定義という意味で)を導くことは出来ない。では現実の特徴を、客観的に分析するならば、明瞭性即ち境界性、時空の連続性、前出と似ているが因果拘束性、不可逆性、代替不可能性、非従属性、共有可能性などが思いつく。これらの特徴は現実の特徴というよりも、時空の特徴だ。一言でいえば、それは妥当性だ。真に実在する外部は時空を持たず、座標も確定できず、この場は妥当性を逸脱している。むしろそのような場が真の実在の場である事は、妥当性を逸脱しているどころか、狂人のたわごとと考えられるべきであると、考える事が妥当である。つまり、この妥当性も妥当である事によって妥当であると考えられるのであって真の定義を持つ必要はない。

 

この中で最も重要な特徴は、代替不可能性と非従属性であり、現実が、つまり世界が自分の認知とは独立して存在している、という感覚である。物理現象が観察者不在でも観察時と同様の変化を行っているという感覚だ。この非観察時の物理現象の実在は証明不可能であり、やはり感覚に過ぎない。背中に虚空が拡がっている事を誰が信じるだろうか?他者には私が観察できない空間を観察できる事は、私の背中に虚空が拡がっている事が無い事を証明していない。それは物理現象の独立性が証明されている時にのみ証明される。しかし、これは誰も証明できない。映像は証明できない。それを見た時に観察が生まれるからだ。むしろ公平な観点では、観察しない事によっては、何事も証明できないのである。私は無意識と、物理現象や世界を混同しているのではない。はじめから、物理現象や世界は無意識によって創出されているという事だ。ただ、世界が外在的に振る舞っているだけであるというアイデアを思いついた場合に、世界のシミュレーション仮説に至るのだが、この世界はシミュレーションではない。原「私」は常に実在の為の真剣勝負を行っているのであり、シミュレーションという表現は全く相応しくない。

 

 

プライドを持つ事は実在の条件である。実在とは、意味的実在に外ならない。プライドを持つ事は実在証明の意味を持つ。しかし、どこに実在しているのかは人それぞれである。またどこまで実在しているのかは人それぞれである。命や生きる事は、現実の世界における実在証明の意味しか持たない。生きる事は比率的な実在の方法であり、原理主義的な実在の方法であり、細胞の実在の方法だ。社会においては、プライドは帰属意識を裏付けとする。集団や社会に対する帰属意識におけるプライドはむしろ下層のプライドだ。帰属意識は、社会的実在を保証している。

 

プライドは自由意志の絶対的肯定を後ろ盾とする。自由意志が無いという考え方は、プライドを放棄したも同然だ。「脳科学的には、自由意志はないのです」と説明された時の落胆を考えてみればよい。この落胆はプライドを否定されたことの落胆だ。

 

ただ、武士道は下層ではないが上層である。命とプライドを秤にかけてプライドが所属する場が、実在の場となる。これは人間がプライドの機能を利用しているという表現ができる。武士道よりもっと上層の場にプライドが在れば、世の中の大抵のことは些事に類するのであって、怒りも抑制できる。つまり、逃げるが勝ちという構造も自身のプライドの在処が、そのような下層の場ではないということだ。

 

最上層のプライドの帰属先は、自分だ。つまり、全ては自己責任であるということだ。この感覚を得るためには、あるいは自己を最上層の帰属先とするためには、九死に一生を得るパターンで、自力で乗り切った経験が役立つだろう。必ずしも殺戮の中に身を置いた真剣勝負を必要としない。

 

この世界は原「私」の自己責任の世界である。自己責任は階層性を断つ。無意識の世界観では、この自己責任世界が、自己中心型世界になる。自己責任世界と、自己中心世界は似て非なるものだ。自己中心型世界は他責世界であり、階層性の無限退縮に陥り陰謀論に陥る。

 

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あまりまとまっていないが、まとめる気力がないので、本稿はこのままでご了承願いたい。

 

私は魂論を展開しているのではない、ということを理解してもらえれば幸いだ。