保存されている構造とは、説明不可能性、言語化不可能性を持っている。クオリアが好例だ。たとえば、クオリアの説明は、「どれだけクオリアを理解できないのか」という説明になる。例えば赤とは一体何か。赤を説明しようとしても、できない。感覚というものは主観体験なので、そのものを他者に説明しようとしても、できない。色の波長分解を提示しても、赤の説明にはならない。これは前回書いた通りで、記号的な関係性による説明は循環論法が延々と続くので、説明は完結しない。循環を逸脱し、完結しようとすると無限退縮に陥り、説明不可能である事が明らかになる。比喩表現を使う事も同様に循環論法だ。

 

 実は、言語活動は全て、この循環論法で全く説明にならない。真に納得できる説明など実在できない。定義の定義を追求していくと、同義語による比喩的表現が循環し、完結しない。同義語の循環から逸脱し説明を完結しようとすると無限退縮し、説明不可能になる。最終的に、論理を通すには、「そういうことになっているから仕方がない」と説き伏せる他ない。従って、世に認められた論文や科学的な研究成果でさえ、追求すれば説明に窮することになる。実証試験でさえ、この世界の道具性を逸脱できない。実証試験の主張できることは前記した「そういうことになっている」事が実証された事に止まる。

 

 しかし、我々はこの主観体験しかない体験的感覚について、他者と共有している、という確信が既知の知となっていて、通常は意識にすら、そのことは上がってこない。超越的な確信を持っている。しかし、これは確信という信じる信じないという問題ではないし、錯覚でもない。我々は無意識的には同一の存在であって、個々の主観体験は、全体性を持った同一的主観体験となっている。この同一的主観体験には限定性があり、「私」と他者は違うものを見ている。共有されているのは、「保存構造」であって、表象的なものではない。無意識的には存在とは全て、同一的存在である、という意味は、無意識=フラクタル構造ということだ。ただ、無意識はフラクタル構造そのものなのか、完全性を失ったフラクタル構造なのか、完全性を失ったフラクタル構造が完全性を取り戻すための指向性なのかは、まだ熟考する必要がある。

 

保存構造は大きな集合から小さな集合まである。だから近くと遠くでは同じものの見え方が違う。つまり、この保存構造は、保存構造自体を見ているわけではない。保存構造は、その集合の関係性によって変化するということになる。この集合とは、手続きの集合である。

 

再び戻ると、証明も反対証明も、共に反対証明を行っている事になる。百万言を費やし試験によって実証した証明は、実は反対証明を行っているということだ。世界はどれだけ説明しても理解不可能であり、説明不可能である事を証明している。これは表象依存の結末だ。つまり説明など不要で、既に万人は既知の知として知っている、という意味だ。ただ言語化不可能、理解不可能だ。言語化不可能で、理解不可能である、とは、その理解が、表象に依存した理解形態であるからだ。ただ、保存構造の表象化(言語化・数値化・論理化)において、言語・数値・論理を可能な限り最小単位に近づける事のできる才能のある人は稀に生まれて、彼らは天才と呼ばれる。これは分解能力に優れた人だ。通常は、この高度な分解能力は無意識が行っている。

 

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私の提示する時空・世界・精神現象を総括する構造は、モデルとして私が理解しやすくするためのものだ。私は現実の性質を記述しているのであって、そのような構造的な構成があるとも思えない。また、構造モデルはより具体化し、詳述しようとすると“逃げる”性質を持っている。“逃げる”とは、矛盾が生じてくるという事だ。これは言葉の限界を表わしている。我々は構造的に考える習性があるが(思考は分解・再構造化であり、たとえ散文的な思考や記述であっても小さな再構造化集合だ)、世界の構造的なものは“記述以前”として存在している。構造としては記述できないとは、論理的には記述できないという意味だ。従って、常に出現し続ける保存構造とは、非構造的構造である。矛盾表現となるのは、現実世界には構造しかないからだ。ただ、思考は構造的で線形的なものと、非構造的で非線形的なものが混交している。文章作成は構造的思考(論理的思考)が主となる。それでも構造化は後から行うのであって、手続き的には非線形的な分解と集約を線形論理に展開していくことになる。

 

そして理解は、非線形的に生じる。理解には論理的整合性が必要ではない。つまり間違っていたとしても理解は生じる。この認知的現象は、重要な事実を表わしている。何が間違っていたのかと言えば、思考で扱っていて現実の表象が間違っていたのであって、保存構造の保存構造的運用においては間違ってはいなかったという事だ。だから理解が生じる。これが言葉の齟齬の起源であり、言語的コミュニケーションの齟齬の起源である。

 

理解とは、分解がかなり進展した段階、最小単位まで分解した段階で生じるのではないか。この理解は無意識的に生じる理解感覚だ。つまり完全なフラクタル構造においては、全てが同一であり、線形的表象としての言語や論理も、非線形的な、その構造の最小単位においては、どのように展開しても整合性を持つはずだ。最終段階まで分解し、不確実性を取り除けば同一になる。つまり、理解は線形的な整合性が無くとも、理解の感覚だけが生じる場合がある。逆に理解の感覚が先行して、線形的に不整合な論理を、論理的な整合性があると錯覚する場合もある。この理解はフラクタル構造を線形展開した状態の決定論的理解であり、手続き間に間隙=不確実性=速度=差異が無い理解だ。

 

意識的には、分解の逆のプロセスである、再構造化・集合化の単位を大きくしていく際に、差異・不確実性が混入していく。分解は同時的に行われ、不確実性を除去していくのであり、これは無意識的反射であり、意識していない部分が大きい。

 

理解も無意識的反射ではないか。分解は同一性を見つける事だが、不確実性が無ければ、同一である事は決まっており、不確実性の排除が無意識の反射的理解に達する事だ。神秘体験は、この反射が無条件に行われる。通常の意識的理解は、論理性と妥当性が必要であり、誤差を含んだ表象的理解が必要になる。この場合も反射的理解と同様の快楽が生じるのだが、必ずしも意識では分解が小さく展開しているとは限らない。大きな表象的集合で理解している事の方が多い。理解というものは重複して生じている。

 

内的表象にも速度(=間隙=不確実性)を与えられない場合には、内的表象である手続き単位が高密度、あるいは密度構造を持たないので、短絡思考、衝動性を生むだろう。高密度であっても問題が無いし、むしろ要請されるのは、数学、法律だ。数字と法的文書は、不確実性を持たない(希薄でもいい)のであり、その保存構造は、表象に近いといえるだろう。数字と法律が不確実性が少ない理由は別々だ。

 

説明の言葉は論理構造であるために、循環論法か、無限退縮のいずれかになるが、命令(指示)の言葉は論理ではないために、循環論法にはならない。法律は説明を要しない。ただ受容を強制するだけだ。命令とは不確実性を小さくするための言葉だ。予定調和的世界、決定論的世界を実現するための道具だ。世界の大小はある。

 

数字もやはり説明不可能性を持っている。基本的な単位である1を説明しようとしても、同義語しか浮かばない。数字もやはり命令系統である。数字は現実の規則を記述するのに適している。現実の規則とは順番である。順番がなければ、連続性を持った時空は出現できない。法律と同様に、やはり不確実性を小さくするための規則である。

 

ここで再び前記に戻ると、説明の言葉も命令である事が分かる。論理的整合性は保証されない事が決定している以上は、前記の通り、「そういう事になっている」という主張に止まるのであって、これは命令に相当する。権威ある論文であろうとも、世界に認められた学識であろうとも、それはこの説明を受容しなさい、という命令だ。教育の本質を表わしている。つまり法律と同様に規則を表している。言葉は命令以外の機能を本来的には持たない事が示唆される。従って、論理的展開には、言語は向いていない。(これは論理的整合性や構造的整合性は、「現実」の理解には向いていないという事と同じ意味だ)。ある理論が、社会や世界あるいは学識経験者に認められるという事は、常に権威主義的受容なのであって、論理の整合性によるものではない。論理は整合しない事が決定しているからだ。

 

言葉も数字も規則を表すために存在している。敷衍すると、世界の表象とは、規則を表すための道具だ。表象の道具性とは、表象が規則そのものではなく、表象が規則を表す道具であるということだ。つまり物質が自然法則に従っているという見方ではなく、物質は規則を表すための道具であるという見方の方が表象の性質をよく顕している。表象は自然法則を表すための道具だが、我々は、この道具を使って新たな規則を作っている、ということになる。自然法則を表している主体はフラクタル構造の同一性を持つ無意識的存在であり、オリジナルの規則を作っているのは、主体的存在である。

 

ここで数字に戻ると、数字は、論理的整合性を持つ事ができるように感じる。将棋の駒が将棋世界の規則を表現しているのと同様に、数字は数学世界の規則を表現している。論理的整合性を持つ数学世界を数字で作っているのである。従って数字も、世界の普遍的な論理を記述できない、のではないか。

 

たとえば、生活では、特にお金の計算で、足し算や引き算を多用するが、足し算や引き算という法則さえ、普遍性を持たない可能性がある。つまりそのような因果関係は普遍的な自然法則とは別であるという意味だ。

 

現実の物質の性質では、量的なものとして整数では実在できない。量が整数として実在している事の証明は不可能だ。整数として足したり引いたり掛けたり割ったりする事も出来ない。これができるのは抽象概念に対してだけである。物質の量を抽象概念化した時にのみ整数が存在し、計算というものが可能になる。

 

数学が表わすのは完結性だ。これは将棋などのゲームと同じだ。数字と数学の表す規則は別であるということになる。数学においては数字を利用する必要はない。実際のところ数字以外の記号を利用する。では数学は保存構造の規則を表しているのかと言えば、そうではなく、数学は保存構造の在り方を表している。「完結性」というものを表現している。

 

抽象概念というものは、完璧に構成できる。不確実性を排除できるからだ。完璧、完結、完全の性質は権威の性質だ。物質では、完璧な構成は出来ない。例えば、現実には真球は存在できない。この現実では、「構成する事」は完璧性、完全性を失う事だ。しかし、この現実は「構成する現実」である。物質は離散的に原子であり、さらに離散的に粒子に離散する。

 

フラクタル構造が存在(無意識としての普遍的存在)の起源であるとすると、我々(存在の全て)の起源は抽象概念をさらに遡って、「保存構造」の形態だ。抽象概念は物質の起源としての「物質以前」なのであり、「保存構造」は抽象概念の起源としての「抽象概念以前」である。

 

私は原初のフラクタル構造は観念的には真球であると考えている。つまり、それは構造ではないし、観念でもない。その形態は記述不可能だ。性質は予想可能性を持っている。

 

説明と納得という我々の考え方は、おそらく間違っている。完全性の提示、完結性の提示においてのみ、説明となり得、納得になり得るのだが、言葉は完全性を持たない。完全性を持つ離散的な手続き集合は、数学、ゲーム、総じてシミュレーションしかない。

 

実は論理的完全性を求めていたのでは世界はまったく進まない。不確実性が排除されている事、我々は、ただこれだけで説明や命令を受容するのである。完全性とは、不確実性の排除の度合いであり、不確実性が無い時、完全である。何の不確実性かといえば、一つは論理の不確実性、一つは創生者(話者)の不確実性だ。シミュレーション以外の論理は完全性が無い事が保証されているので、つまり我々は創生者の不確実性の無い事を確認できた場合において、納得し、信じるのである。これが権威主義だ。

 

数字はシミュレーション世界を記述するのに適した言語であり、これは決定論世界を記述するために適した言語であるといえる。不確実性の存在しない世界のための言語だ。現実を記述できない。不確実性は従って、数字や数学では記述できない。

 

また言葉もシミュレーション世界を記述するのに適しているが、数字ほど精密ではない。言葉は、不確実性の痕跡を操作している(操作できる)という意味で、数字とは違う。数字はシミュレーション世界と同期的に存在し、言葉は少し俯瞰的位置で世界を操作できる。

 

それでも、私は、記述可能である事は展開する必要が無いと考えている。つまり、言葉も過去の決定された世界を記述するには適しているだけだ。数字も言葉も決定論的世界の記述言語である。なぜなら記述可能である事は、パソコンに収納できるからだ。その記述された内容は、時空を超越してパソコン内に存在できる。この事は、その記述された内容が時空を超越して展開している、と同じ意味である。時空を超越して展開しているという意味は、展開の無意味さ、空虚さを特徴づけている。

 

分かっているのに思い出せない、という認知的現象について。これは保存構造があるが、表象化できないという現象だ。抽象概念化はされているかもしれない。保存構造―抽象概念―表象。このプロセスは三つの段階に区分できるものではなく、グラデーション状に展開しているはずだ。分解されている離散的な保存構造が集約を繰り返していくプロセスだろう。このプロセスは分解とは逆に、不確実性を付与していくプロセスではないか。

 

保存構造は、むしろ言語化しない間隙、言語化できない間隙に、よりそれに近いものが存在するだろう。従って、より詳細な説明よりも、散文的である方が、説明者の伝えたい保存構造をより正確に伝える事ができるのではないかとも考えている。

 

フラクタル構造は脆弱である。不確実性という圧力に屈する。では「弱い」とは何かについて考える。これは変化すること、だと定義する。変化の一つは、離散的な時空の展開だ。時空の展開は変化の1パターンである。もう一つは同一構造を持つ複製をつくる事だ。このパターンは時空の展開という変化の中における変化である。この対比は、並んだ二つの樹木にあてはめる事ができる。二つの樹木は同一の保存構造を持つ複製だ(その意味では全ての存在は同一の保存構造を普遍的に持っているのだが)。同時的に、時空の展開により成長し変化する。完全性というのは脆弱である。というのは現実的な事象で精神現象にも、物理現象にもみられる。例えばコンクリートは混淆すると強化される。金属は合金が強い。生物の多様性は全滅を防ぐ。もう一度、最初の定義を見直すと、変化とは「弱さ」「脆弱」の結果であり、変化自体は「弱さ」や「脆弱性」の定義ではない。変化しやすい事が弱い事を原因としている。変化とは、完全性を失ったために修復の指向性として行われると考えたい。

 

人格は多様な性格の集合だが、果たして統合されているのかは微妙である。人格は多くの類型的性格で成立しており、これは物質創生的変化を忌避した(あるいはできなくなった為か)普遍的な人間の性質だ。類型的性格は物質創生的に複製されているのだが、物質的には創生(複製)されていない。類型的性格はベクトル性の分岐に対応するので(これが類型的性格のそれぞれが複製である理由だ)、生物の存在理由をフラクタル構造の視点から見ると、物質的複製(創生)を忌避するためのようにも見える。あるいは、生物とは、物質の複製(創生)が行わない場における、物質創生の代替現象ではないかと考えている。私は後者の説をとる。つまり、その生物の複雑な構造自体が複製の集合であるという事だ。新規に物質を創生するのではなく、既に創生された物質の構成を変える事によって複製を創るのは、物質の創生が終了した後の世界の展開だ。つまり生物は物質の構成を変える事によって物質創生に類似した複製を創り、また子孫という形で複製を創り、またベクトル性の分岐という形で複製を創り、集合という形で観念的な複製を創り、意識的生物になる事によって観念によって大量の複製を創っている。複製とは存在の全てであって、いかなる存在性も複製である。行為でさえ、時空的な複製である。

 

人格の統合性は、ベクトル性人格の保存構造の出現プロセスにあるのではないか。むしろ、記憶の断絶というものは、人格の統合感覚に必要なのではないか。記憶力が良すぎる事は弊害も招くし、サヴァンのように病的症状である場合もある。性格というものが、多様な類型的性格で成立している以上は、それらの性格は「存在」なのであって、物質や生物と変わらない。保存構造であるならば一つの性格で形成された限定的人格ともえる。ここはフラクタル構造の線形展開における限定性が在るのであって、物質、生物、抽象概念、ぞれぞれの成立条件があるはずだ。ただ、成立条件を逸脱する場合もあるのであり、それは精神の病として現れるだろう。

 

 

精神現象や生物現象は、既に物質の生成が行われない場における、物質の創生の代替的な現象ではないか。物質創生の起源は、「1」であったフラクタル構造に不確実性が混入し、完全性を失ったフラクタル構造が復元・修復の為に複製構造を多密度・高密度で瞬間的に生成したのではないか。初期において複製構造は高密度だが、現在は希薄だ。間隙に時空が存在する。我々の生活の場は、低密度で安定している。既に新たに物質の生成が行われるほどの高密度状態ではない。

 

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 後半は散文的でテーマの列挙になっているが、それぞれのテーマはいずれ掘り下げる事としたい。

 

 しかし、現段階で分かった事は、世界の構造を短文で説明すると、「それが、ああなって、こうなっている」という言葉が適切であり、集約すればするほど離れていくということだ。分解を提示する方がまだましだ、ということになる。