(前回の続き)
外部的な「私」の今と同一性のある内部的な今は、時間の経過に伴って過去に回収されている。この内部的な今の世界は、永遠に凍結される。内部的な今は永遠に静止状態となる。我々が見ているのは、新たな世界が内部的な今に出現し続け、内部的な今という瞬間の世界が次々に過去に回収されていく様子だ。
この今を一コマとすると(このコマは離散的な時空単位だと推定する。というのは不断の連続性を持った時空では変化が生じる余地がないからだ。変化というものをどれだけ最小化しようとも変化は離散的で滑らかにはならない。従って、不断の連続性を持つ時空は、完全に停止した時空以外にはない)、一コマの順番だけが共有可能であって、コマの間にある時間の最小単位(及びコマ自体の離散時間という最小単位)の決定は各個人に委ねられている。だから世界の動きが遅くなったと感じるスポーツ選手の証言が成立する。それは実際に時間の最小単位が大きくなったのである。なおかつ時間を他者と共有しているのであるから、私の仮説はもっともな仮説ではないか?
スポーツ選手の証言で、重要なポイントは、思考のスピードが時間感覚とは連動せず、通常の思考を維持しながら、時間が遅くなったと感じている事だ。これは思考が、「私」と共に外部的に存在(内部の外部性)している可能性を持っている。つまりここでいう思考とは、言語的なあるいは抽象概念的であるとしても、そのような緩慢な思考ではなく、一瞬の思考だ。この非言語的、非表象的な一瞬の思考は、時間の最小単位である離散時間内で完結していて、意識に上がる際に若干の時間幅の拡大がある程度だろう。
内部世界にある「私」はコマで完結しており、時間の経過に伴って無限に又は無限的に同一の「私」が創出され続ける。時間の流れと共に在ると言う場合には、「今」という完結した状態が継続的に時間の流れと共に流れていくという事だ。時間は未来に向かっていると考えられているが、これは理論的な時間だ。あるいは構造的な錯覚をもたらす時間だ。理論的で構造的な時間の流れとは逆行し、今は過去に流れていく。従って、時間は過去にしかない。時間は「今」から常に創出され続けているが、常に過去に向かって回収されていく。今の方向が未来にあり、これが時間の矢である。未来に向かった時間の矢は不可逆的な方向性だが、時間という量的なもの(時空という量的なものでもいい)は、常に過去に向かって流れている。時間と共に在れば、次々に出現する(又は到来する)「今」の世界(及び新たな同一の自分)によって弾かれて過去に固定されたままだ。従って、この内部的な時間と同期しかつ意味的同一性を維持しながら存在し続けることは出来ない。もし内部に存在するのだとすれば、内部に出現したその瞬間に永遠に凍結されたままだ。外部的な視点では、その連続性において価値的同一性を維持できる。これは表象的な世界であり、映像と同じだ。しかし、外部視点だけではコマの断絶性は維持されたままだ。全く違った場面を連続的に、映像化する事に似ている(ただ、この場合は価値的同一性も欠いている。価値的同一性を維持する連続性は原理再現性に基いている)。ただ俯瞰するだけでは、意味を持たない。意味を与えるのは「私」に外ならない。我々は、この内部世界に意味を与え(世界には自分の肉体も含む)、外部的に意味的同一性を維持できる存在として俯瞰している。我々とは原「私」だ。
ではAIロボットは?
出現した瞬間に今に固定され過去に流れている。AIロボットは内部世界にしか存在できない。内部に外部性を持って実在することは出来ない。時間の経過に伴い新たに出現した同じロボットは表象的同一性を持っているが、意味的同一性を持たない。AIを搭載していても、それは原理再現性に従って動いている。原理再現性が、意味を代行している。だから所詮AIであり、所詮ロボットなのである。どれほどプログラムを複雑化しようとも、記述可能なプログラムである事が原理再現性を保証しており、決定論的に再現されているだけだ。このAIロボットは生物がいなくなっても原理再現性で内部世界で動き続ける。そのような内部世界は存在する「意味」がない。だから、この内部世界は、それ単独では無意味であり、虚構である。表象的世界は決定論的虚構の世界だ。意味が実在と現実をもたらしているのであり、意味は必然をもたらす。意味無き世界など実在しない。従って、むしろ原「私」こそが実在である。表象世界は、むしろ非実在である。
自己同一性とは、人間の場合に意味的同一性だ。表象的同一性や価値的同一性ではない(両者は同じであり、比率や倍数で構成されるが最小単位である意味を持たない)。もっと下等な生物であれば、自己同一性に占める意味の割合は小さく、原理的同一性(価値的同一性)が自己同一性のほとんどを占めるだろう。錯綜したが、表象的同一性=価値的同一性=原理的同一性だ。
原理的同一性は過去に回収されていくが、意味的同一性は回収されない。意味を与えているのは、時間を持たない原「私」だからだ。しかし、断絶はある。また復帰もある。
