構造保存は非線形的(非時間的、非空間的)な循環構造において維持されている必要がある。と前回、前々回書いたのだが、これについて、もう一度整理してみる。

 

 時空の線形的な展開だけでは、変化に連続性を持つ展開が全く保証されていない。従って保存則が自然法則としてあるのだが、保存則がなぜ在るのかの理由が上記の内容だ。不可逆性を持つ時間に従って空間の変化が展開するが、時空というステージでは変化は必ず離散的になる。連綿とした不断の変化は存在できない。どれだけ変化を小さくしていっても、変化は不断にはならない。一つの時空単位はコマ送りのコマである。次の変化が、今の変化との連続性を持っているためには、今の変化の構造が保存されている必要がある。でなければ、全く違う構造の時空がコマが変わるたびに出現する可能性がある。連続性を持った時空が出現し続ける根拠は、線形的な時空の構造自体にはないということだ。

 

 構造の同一性を維持しているのは、フラクタル構造だ。あるものが同じものとして出現し続ける事。あるものが、ある場所に出現し続ける事と、自然法則に従って妥当性を以て出現する場所を変える事。これはフラクタル構造が非線形的に構造を保存し続けているためだ。線形的な時空の構造自体は、同一性の維持を全く保証しないし、むしろ、それだけでは混沌として無秩序の世界を提供する。線形時空の秩序は時間の矢しかなく、時間に従ってバラバラの世界が展開するだけだ。

 

 逆に考えてみると分かる。あるものが同じものとして出現し続ける事。あるものが、ある場所に出現し続ける事と、自然法則に従って妥当性を以て出現する場所を変える事。これは、実は時空を超越した現象だ。ある時空単位にこれらの物体が存在した(出現した)とした場合に、それらの物体は、その時空単位に固定されたままになるはずだ。しかし、再び同一性を以て出現する。これは完全フラクタルではないものの、限定性を持ったフラクタル構造が時空構造に含まれていて線形時空を超越している、ということだ。

 

 時空は時間に沿って変化しなければならない事だけが決まっている。自然法則は、時空の法則とは別に存在している。ここは分けて考えなくてはならない。つまり自然法則が、局所性をもって限定的ではなく、普遍性を持つ理由さえも、時空は提供しない。この普遍性もやはりフラクタル構造にその原因を求めざるを得ないのではないか。

 

 また、我々は、世界が外在しているという感覚を持っていて、同じものを見ていると感じている事、これもフラクタル構造によって保証されている、と考えるべきではないだろうか。主観体験しか経験できない以上は、世界が共有されている事を証明するのは不可能なのだが、世界の共有を既知の知として疑わないのは、我々自体がフラクタル構造によって同一性を持っている事を示唆している。これは前回書いたのだが、我々及び生物および非生物の物質という存在の全ては、無意識的には起源が同じで同一である。無意識としての存在は過去も未来のという時間の境界や、空間の座標という境界を持たず全て同一であり、時空の座標にそれぞれ違う存在として存在している、その存在とは、「1」を起源とする複製だ。不確実性という圧力で完全性を失ったフラクタル構造が復元のために複製を創出している。

 

 循環構造という言う意味は、表象の単位が手続きの集合であり、その単位では手続きが循環しているという意味だ。表象として現れているのは、集合の全体性であり、分解された具体的な手続きを顕さない。手続きの集合はより小さな手続き集合単位まで分解できる。視覚的には近づいてみれば、遠くから見るよりも、より小さく分解された手続き集合の全体性を見る事ができる。視覚的な表象は、集合の全体性の見え方に従った表象だ。

 

 存在は、この手続きの集合であり、我々も手続きの集合だ。手続き単位の間隙に時空が存在するのだが、この時空を創っているのは速度だ。主体は速度である。無意識的存在ではなく、主体的存在としては、我々は、この間隙に時空として存在し、時空を創っている。速度として存在し、速度を創っている。不確実性として存在し、不確実性を創っている。

 

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 構造の保存とは単に表象的な表層の保存ではない。数字というものは抽象概念だが、抽象概念でさえ、構造が保存されている必要がある。1が1として出現し続けていなければならない。1は常に1としての意味が変わらない、というだけでは構造が保存されている事にはならない。なぜなら、「1は常に1としての意味が変わらない」というのは、単に主張であり、願望の類だからだ。「1」も「1としての意味又は定義」も、ともに構造が保存されていなければならない。記号と意味の関係に還元しても循環論法だ。記号と意味の関係に還元する枠組みは、世界を道具的に理解する枠組みに過ぎず、道具の同一性の保証は、相互循環するので、循環論法となって、保証にはならないということだ。道具による道具についての説明は、責任を逃れるように延々と循環していくばかりだ。従って、抽象概念でさえ、その構造は保存されていなければならない。

 

 物質もやはりただ表象的な表層だけが保存されているのではない。物質も抽象概念を持っているのであり、むしろ物質の性質は抽象概念であって、物質が同一性をもって出現し続けるためには、表象的な表層だけでなく、抽象概念も保存されている必要がある。(物質はその生成時から既に抽象概念を持っている。なぜなら、その性質は記述可能であるからだ。記述可能であるとは、その性質の全てを知っているという意味ではない)。抽象概念自体は保存されている構造ではない。抽象概念は記述可能であるために、それはまだ表層にある全体性であって表象に過ぎない。構造は記述以前に存在する。

 

 ある物質が存在していて、この物質に自動的に物質の性質である抽象概念が付与される理由は何か。付与されるのではなく、予め持っているとしても、その理由は何か。むしろ物質は抽象概念が本質であって、その本質の起源は、抽象概念以前の構造にあると考えるべきではないか。

 

 抽象概念以前とは、記述以前であって、それは表象以前であり、知覚以前である。

 

 ここで知覚と自然法則の混同を指摘されるかもしれない。しかし、これは我々自身が生体としては物質であり、フラクタル構造における同一的存在(無意識的存在としては)であるために、同じ世界を共有できるのであり、主観体験しかない以上は、世界は同一的な主観体験である、といえる。そもそも抽象概念は意識固有のものではないし、人間が発明したものでもない。物質的な物質として見た場合であっても、物質は既に、その誕生から既に抽象概念を持っているのである(「物質に抽象概念が存在している」、でもいい)。そして、再び繰り返すが、物質は抽象概念を持っているのではなく(「物質に抽象概念が存在しているのではなく」、でもいい)、抽象概念以前の構造を持ち、保存していて、人間が抽象概念として顕すことができる(記述ができるという事)ということである。抽象概念や、記述可能な概念は、保存されている構造の一端であり、集合的な表層に過ぎない。

 

 フラクタル構造の限定性(完全性を失ったフラクタル構造)、が現実と世界を創っているが、この限定性をもたらしているのが、不確実性だ。