構造的存在がある。この構造は未定の構造だ。世界も未定の構造だ。この固有の存在と世界は共に未定の構造だ。「距離」がない。ここでいう距離は間隙という意味だ。この存在は物質だ。主体(不確実性)は外在しているともいえるが、自己と世界との区別なく遍在している不確実性が主体である。物質は存在ではあるが、主体は世界と同一である。

 

 生物は不確実性を内在し、不確実性は自己の未定の構造との間隙を持つ。この間隙に構造的主体が生まれ、また不確実性は意味的主体となる。生物の自己は構造的主体だ。意味的主体が反応系に意味を与える事によって、構造的主体は未定の構造である自己を知り、未定の構造である世界を同時的に知り、さらに自己と世界は分離する。原始生物においては、主体と自己、主体と世界との距離は小さい。未定の構造である自分を知る為の反応系が、未発達であるからだ。この状態はまだ世界とほぼ同一的に未定の構造である状態ともいえる。未だ与える意味が小さいので、自己をよく知らない。というのは神経系・知覚・感覚系の発達は、意味の増大の要請に比例していると考えられるからだ。

 

 認知症を考えてみると、世界に対して未定の構造を見出している事は間違いない。未定の構造があるが、その意味を知らないので確定(しかし、推論である。脳は推論しかできない構造だ。また脳も未定の構造である。)できないだけだ。これは意味を与える事が出来なくなったと表現できる。神経や脳が意味を与えるわけではない。ゼロからスタートした脳が、意味など持つわけがない。教えられても意味は分からない。これはこれである、と比喩的な手法で説明しても意味は全く理解されていない。これはAIが、どれだけ知識を収集し、また論理を展開しようとも、何一つ理解していない事と同じだ。どれが何かを説明するにおいて、これが比喩的手法で展開するとしても、最低限、一つの基点が必要である。生物において、この基点とは自己である。自己を知らなければ、世界を知ることは出来ないということだ。意味は生物に出現し、生物が与えるものだ。神経や脳は、意味の出現を誘発する役目を持っているだろう。

 

 

 

 「自分探しの~」とかいうフレーズは、自分を知らない人には魅力的なフレーズに映るだろう。逆説的には、このフレーズに惹かれる人は、自分を知らない。世界に意味を与えられないし、それより以前に自分に意味を与えられない人だ。探す必要などない事は、健常者の誰もが知っている。つまり病的な人だ。自分を知っているとは、既知の知であり、意識には上がらない知識だ。意識には上がりようもない。それは表現不可能性を持っている。構造化不可能性を持っている。

 

 

 

 AIが理解していると言う時、「AIが理解している」という理解を生物が自己に与えなくてはならない、もしくは「AIが理解している」という理解を自己に与えるだけでよい、という二種類の表現ができる。これはAIの意味理解を人間が代行する事に相当する。AIは構造理解をしているといえるが、AIはこの構造理解と同期し、構造に間隙がない。構造と同期している。たとえば、AIが、この同期している構造理解を俯瞰し、構造理解している事を構造的に理解したとしても、やはり構造理解を超えることは出来ない。この構造利用可能性の動的出現が、非構造的に為されていなければならない。構造的には因果関係と知識によって、この構造の利用可能性はベイズ的に導出されるだろう。しかし、それは意思でもないし、恣意性でもない。意思や恣意性は、因果関係を逸脱して、出現するものでなければならない。意思や恣意性は理由無き選択である。理由ではない理由が意味だ。従って、意志や恣意性というのは矛盾として存在している。構造的選択は同期現象だが、意志は同期ではなく、出現そのものである。このため、同期現象は説明可能だが、意志は説明不可能である。意思においては、説明すべき対象が存在しない。これは存在についても言えるのであり、存在は説明すべき対象が存在しないのである。だから我々は、このように世界の実在を信じて疑わない。構造的に考えれば、世界の実在の根拠が必要になるのであり、しかもその場合に、無限退行して行き詰まる。

 

 AIに理解を与える、という行為は、偶像のメカニズムと同じだ。たとえば、神社に願い事をするメカニズムと同じであり、神を信じていると天国にいけると考えるメカニズムと同じだ。対象(偶像)とは意味理解、世界理解が共有されていないが、世界の共有を確信している。この場合、対象(偶像)が行うべき構造的理解も代行し、意味理解も代行している。AIの場合には、意味理解を代行するだけだ。

 

 

 

 この偶像利用は、普遍的かつ一般的に行われている。主体は、構造的主体と、意味的主体が併存している事は前回書いた通りだ。構造的主体は、偶像である。つまり、それは人間においては、一般的に自己像と呼ばれている。

 

 動物は食べないが、植物は食べる。これは構造主義的だ。凶悪犯は殺してもいいという考えに近い。一義性は、構造の責任に委ねている。また、既存構造に囚われている。植物にも主体は在る。

 

 目の前にハエが飛んできて、可哀そうだから、殺すのはよそうと考える時もあれば、殺してしまう時もある。これは条件や状況の違いではない(ということを証明はできないので、仮定という事に留めておく)。この恣意性は、たとえば罪を自責とする事によって、それを背負うことによって、それを背負って、なおかつ恣意性を放棄しない事に拠って、存在は存在としての意味を持つ。恣意性の出現の責任は、現実において、それが出現している事に拠って、既に責任性を表示している。その現実の出現とは、あるいは表象とは、逃れられない責任を表現している。つまり、この存在責任というものがなければ世界そのものが成立しない。構造的には、因果関係によって、「あれは私の責任ではない」、という事が理解される事もある。これはバランスの問題だ。人間は併せ持つ。

 

 仕返しを恐れるというのは、可能性の保持であり、人間的だ。すると、人との接し方は、可能性を考慮すべきとなり、ここで礼儀作法が生まれる。可能性の保持とは責任の保持だ。ハエに対して配慮しない時、背後に猛獣が居て自分を襲ってくる可能性も考慮していない。しかし、たとえ、猛獣により自分が殺害されたとしても、それは責任を果たした事の一例となる。

 

 ところが、人は偶像に依存する。たとえば、記者は、記者という偶像に依存し、記者として、時にはかなり無礼な質問を回答者に向ける。国会答弁のような質問になる。回答者も、その立場という偶像に依存しているので、話せることは限定的だ。友達と話すのとは違う。従って、回答者、発言者の答える内容は、記者は予め知っているようなものだ。

 

 役回りは構造的主体の可変性だ。構造的主体に自分はない。だから構造的主体に依存している人、偶像に依存している人は、自分探し、という衝動に駆られてしまう事になる。

 

 自分とは出現している自分そのものであって、それ以外の何ものでもない。その自分とは性格などに規定されるものではない。性格など、世界生成を行う主体において些事に過ぎない。

 

 構造的には「私」は未定の構造だが、意味的には出現そのものであって、構造に束縛されるものではない。

 

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 説明すればするほど、本質から逸脱してしまうので、本稿も、飛躍が目立つ文章かもしれない。

 

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 灯油君とタヌキ君は友達でしたが、タヌキ君がストーブを使っているうちに、灯油君は消えてしまいました。

 

 このような童話の元型は、非固定的であり、収束も展開も自由であって、意味を与えるのは主体だ。