(前回からの続き)

 

 世界は復元性によって、物質が創出され、また時空的に連続的に出現している。復元的なのであって、復元ではない。復元を目指して展開される。創出され、また出現しているのは、非線形的な手続きの集合であり、時空は、この間隙に存在する。手続き集合自体は時間を持たず、線的に出現し続ける。「線的に」とは、時間幅を持たない、という意味だ。意識の我々は「今」しか現実体験できず、「今」は時間幅を持たない。我々はどこに存在するかといえば、間隙の時空であり、表象化された非線形的な手続き集合を見ている。我々は時空自体である。時空は、非線形的な手続きの間隙に存在する速度だ。従って、我々は速度であり、また速度を自己生成する速度だ。

 

 意識の「私」という精神現象は無意識が構築しているので、物質と同様に「閉じ込められた非線形的因果関係(非線形的手続き)の集合」だ。では速度として存在する「私」とは何かといえば、不確実性である原「私」(The  Prime Self)だ。

 

 意識は非線形的に理解している。線形的には、理解というものは存在できない。情報処理は、字義の如く処理プロセスに過ぎない。物質的には、構造を保存するための脳という保存構造がある。脳も物質であり、物質的には非線形的な集合で構成されている。非線形的な集合が、線形的に配置されている(これは世界と同じだ)。非線形的理解の集合単位はひとそれぞれであり、理解集合が大きければ理解力が高いと言える。理解力が高いとは多密度・高密度状態の理解だ。従って脳を調べても、理解とは何かを知ることは出来ないだろう。脳は情報処理システムだが、非線形理解の結果的システムであり、脳を調べても痕跡が線形に現れるだけで、そこに理解というものを見つけることは難しいだろう。従って、脳は人工的に構築できるかもしれないが、理解する主体を創造することは不可能だ。

 

表象は保存様式の一つだ。つまり世界は保存様式の一つだ。同じものとして出現し続けている。物質が既に保存の為の構造だ。コンピューターは二次的に保存のための構造を、保存のための構造(物質)によって構成されている。ここには保存構造しかない。世界の様式に敷衍するが、これが世界の道具性である。構造の保存を、保存された構造で行うという事が道具性だ。この保存構造は入れ子で連鎖していく道具性だ。

 

コンピューターが難問を解いたとしても、このコンピューターには理解が生じない。この難問を解いた事を知るというメタ認知的な機能や、解いた場合に、何かのイベントが発生するとしても、何の理解も生じていない。難問もまた保存構造なのであり、難問も同一性を以て出現し続ける必要があり、その構造が保存されている必要がある。でなければ問題は永遠に解けない。しかし、コンピューターにとっては、難問の構造の同一的出現など全く無関係であるということだ。構造保存は非線形的(非時間的、非空間的)な循環構造において維持されている必要がある事は前回書いた通りだ。

 

保存構造で形成された保存構造で保存した保存構造は、保存されているとはいえない。保存されているのは、離散的で集合的な全体性の表象(表層的で非線形的な深層を持たない。しかし、世界を見ているという時、我々が見ているのはこの表象である)である。記憶が表象的であるという時には、この保存構造で形成された保存構造で保存する事を指す。この記憶は離散的で断片的だ。好例は丸暗記と呼ばれる記憶方法だ。この方法はコンピューターが優れているし、コンピューターは、この保存方法しか持たない。この方法ではコンピューターがはるかに優れる。人間は、この方法ではすぐ忘れる。理解も計算も、表象的に行われる場合には、停滞する事になる。ただし、通常、組み合わせている。線形的表象的思考と非線形的思考の組み合わせだ。

 

何度も書いている通りに、線形的な現実においては、変化は離散的にしか生成されず、変化と変化の間隙は断絶している。思考が連綿と続くのは、非線形的に思考が行われていて、線形的表象は素材若しくは索引として利用しているためだ。

 

現実世界は離散的に展開するが、我々(生物)は不断の存在という事になる。これは当然、物質に敷衍できるのであって、物質視点では、物質は不断の存在だ。つまり表象世界は断絶性をもって展開するが、全ての存在は不断である。ここでいう存在とは無意識的存在であって、主体としての存在ではない。無意識的存在は同一性を持つ。主体としての我々は、速度であり、不確実性だ。従って、主体としての我々は、表象世界に現れる。不断の無意識的存在に境界をもたらし、間隙をもたらし、速度を与える者として、自由意志を行使し、自由世界を構築する者として現れている。

 

 

従って、無意識的存在としては、過去や未来という区別も、私と他という区別はない。輪廻転生や死後の世界という考え方は、ご都合主義的といえる。無意識的存在としては、そのような区別的な存在ではないし、区別を自覚できるような存在でもないし、普遍的存在だ。無意識的な存在としては、固有性はない。ナメクジも、どこかの国の大統領も、路傍の石も、等しく無意識的存在である。「私」である事の唯一無二性は、「私」が不確実性であり不確実性を自己生成する事によってのみ保証されており、「私」とは一期一会の存在である。「私」は保存構造ではない。

 

確かに、「輪廻転生」や「死後の世界」という思想は、無意識の循環構造、存在の普遍性の一端を顕してはいる。フラクタル構造世界に陥れば、あるいは囚われれば、そのような世界を垣間見るだろう。しかし、この時、主体の喪失であり、不確実性の喪失であり、速度の喪失である。

 

ただ、無意識的「存在」と書いたが、存在とは言い難い。普遍的な同一性を持っているのであり、この場合、個々という存在はなくなり、非存在といえるだろう。