(前回の続き。時間についての考察)

 

内部に外在する「私」

 

我々は今しか直接的には知る事が出来ない。(ただし、光子の振る舞いに拠って距離が私から遠ざかる現実ほど、時間的に古い「今」を見ている)。この表現がなぜ成立するのか。過去はどこにも実在できず、「今」しか実在できない。しかし、記憶には過去が在る。過去は確かに在ったのではないか?先ほど、ご飯を食べて、それは過去ではないのか?この答えは、やはり、その記憶は過去の「今」の記憶であるということだ。過去の記憶ではない。便宜的に、我々は、過去の「今」の記憶を過去の記憶と呼んでいる。しかし、我々は連綿と続く「今」しか経験できないのである。

 

「今」は瞬間でしかない。しかし、世界は動いている。瞬間とは時間が停止していて極めて短い離散時間か、境界的で幅を持たない時間だ。動きや変化が生じるのはおかしい(世界には自分の身体も脳も含む)。これは、論理的に考えると明らかにおかしい。今という瞬間しか知る事が出来ないのに、その瞬間に世界は動いている事を知ることができるからだ。「私」は僅かな瞬間しか持たないにも関わらず、世界はそのわずかな瞬間をはるかに超越するどころか連綿として動いていて、過去から現在が現れている。ここで時間は存在しないという説も出てくる。しかし、“「私」の見ている世界”では、時間は確かに存在するのである。だから「私」は時間を知ることができる。どこがおかしいのか、以下に分かりやすく説明してみる。

 

映像を昔の映画のフィルムのようなコマとする。このコマの世界で描写されている人物はコマの中で停止している。コマが次のコマになったとしても、このコマの中の人物は変化を知る事が出来ない。他のコマがある事や、他のコマが連続する事は、この一つのコマの中の人物に全く影響を与えない。一つのコマは完結していて動きが無い。次のコマは、連続性をもって新たな構成になっているとしても、一つのコマが静止状態である事には変わりない。コマの中の人物は、コマが連続しようとも“常に”静止状態にある、のでもない。コマの中の人物には連続性を意味する“常に”をあてはめる事が出来ない。コマの数だけ静止した世界と同一人物が存在するだけだ。コマの中の人物は永遠に、一コマの中で静止した時空に固定されたままである。

 

内部の時間に完全同期して存在している場合(これは内部世界の一つとして存在している場合に、という意味である)に、内部の人物は、変化を知覚できない。永遠に静止状態であって時間は停止している。時間の流れと共に在るということは全く変化が無いということだ。現実に還元すると、もし内部に完全同期して存在している場合には、無数の静止した世界に、無数の同一人物が存在することになるということだ。

 

コマ送りを一連の動きとして見るためには、内部との時間的同期(あるいは順番的同期)を外れた外部視点が必要になる。構造としては映像を見るようなイメージだ。変化を知る為には外部の視点が必要であり、それが「私」だ。外部視点の「私」には「今」しかないが、内部世界は映像のように動いて、内部における過去から現在を現す。しかしながら、「私」は外部ではない。内部に在る外部性である。

 

内部を外部性を以て、世界を映像のように傍観者的に見ているのかと言えば、それも全く違う。「私」は、この内部世界に基準を与えている。そもそも「私」なしで、この内部的世界が存在する必然性も意味もない。意味と必然性は、後半で詳述するが、世界が存在するための重大な根拠である。まず、時間の最小単位の絶対値を「私」が与えている。この時間の絶対値とは、時間の最小単位の絶対値だ。外部的に存在しているために、内部の絶対値を決定する権限を持つ。内部に上層の外部が絶対値を与える場合に、外部における最小単位の絶対値が内部の最小単位の絶対値となる。しかし、「私」には時間が存在しない。「今」しか持たないからだ。これは「私」の上層にさらに外部が存在し、階層の連鎖が無限に続き、絶対値が連鎖の果てまで確定しないという階層性の連鎖と無限退縮の可能性を阻んでいる。「私」が時間を持たない事は、その時間の絶対値は数値で示される値ではない事を示唆しているのである。絶対値が値として存在するのであれば、それは階層の連鎖を否定できなくなるという事だ。ここは以前書いた通りだ。参照:「長さと時間の相対性、時空を創出する生物」、「世界には比率しかない―分割し続ける我々」。いまのところ、便宜的には、絶対値という呼称とするしかないのだが、値ではない。内部世界の映像についていえば、内部世界が映像世界に対して外部世界として機能する上層であり、内部世界の時間が絶対値としての権限を持つ。さらに映像の中に映像があったとしても、さらにその映像の中に映像があったとしても、この階層が延々と連鎖しても、内部世界の時間の最小単位が絶対値としての権限を持つ。

 

論理的には、外部が内部に対して決定の権限を持つ基準の最小単位は時間だけでなく、長さや、重さや、温度など度量衡の全て、及び、あらゆる価値である。最小単位は値ではない。時間が「私」に存在しない事を考えると、「私」には、長さや重さや温度など度量衡の全ても存在しない。しかし、この事に違和感を感じない。確かに「私」とは、肉体を超越している感覚を持っている。これは意識の不思議さとして理解されているのだが、意識の存在形態ではない。原「私」の存在形態が、時間や度量衡を超越しているのである。最小単位の基準は、時間や度量衡だけでなく、普遍性を以て世界全体に対して与えている。そして、この最小単位の基準は、人類で誤差を含んで共有されているために、我々は世界を共有する事ができる。

 

 

 

 

世界、「私」、時間の構造図

 

 

 

意味と価値の分離/意味が決定し価値は決定できない

 

「私」の与える最小単位の絶対値が、もし値という数値化可能なものであるならば、依然として、それは絶対値ではない事を証明し、「私」を俯瞰できる上層の外部の存在が示唆され、永遠の階層の連鎖も示唆される。だから、この絶対値に類する最小単位は、数値ではないし、値ではない。その最小単位の絶対値に類する概念としては、今のところ「意味」というものが適切だろう。「価値」ではなく「意味」である。最小単位や、基準の起源は「命」だろうという事までは前回までに推定した。命の意味が基準である。慰謝料や損害賠償の金額は命の意味を裁判で比率算定し数値化したものだが、本来金額では表現は出来ない。金額で提示されても、納得できないのではなく、納得してい良いのかどうか分からないのである。意味を価値や値に換算する事は出来ないということだ。感情に適用されれば、「満たされない」という感覚を得るが、やはり「納得していいかどうか分からない」というのが本質である。従って、完全なる満足を求めるのであれば、永遠に完全なる満足は到来しない。満腹でも、まだおいしいものを食べたいと思うのである。命の価値こそ、最も納得する事が困難な価値である。算定不可能性を持っている。従って、意味の起源は、命の性質にある。起源という意味は、世界を構成する全ての価値に適用される基準であるということだ。

 

命という基準は、一つは生死という二項対立によって「意味」をもたらし、一つは、生への指向性をもたらす。指向性は価値を求め、意味は価値を決定する。原「私」が意味を知り、無意識が指向性を持つ。価値は最小単位の絶対値を必要とするが、指向性は比率や倍数で示される。二項対立は選択の必然をもたらし、指向性は自律分散的な比率化の必然をもたらす。いずれも必然であり、必然をもたらすのは「意味」である。

 

意思決定は、意味の価値を決定する事だ。原「私」が決定し、無意識が世界を構成する。無意識は意味を扱えず、意味を知らず、意味を比率化した価値しか扱えない。世界とは自分の肉体も含むのであって、行為や表象化は無意識の反射である。ここでは「世界を構成する」という意味を、外部に対して言う時「観察結果を確定する」ということに留めておくことにする。原「私」と意識の「私」は分化しているのではない。原「私」は意識の「私」の今の最前線にいる。意識の「私」は今という境界の直後の世界にいて、過去の「今」を知り続けている。

 

例えば、映像の内部世界のコマに順番が生じ、時間を生じさせる意味、理由、根拠、必然性は、映像機器においては全く無い。映像機器は意味を持たないので、法則の実在に必然性を与える事が出来ない。プログラムやメカニズムは意味を持たず、数値化された表象があるだけだ。意味そのものを与えられてもいないが、近似値としての比率は与えられている。この映像機器が動く意味と必然性は観察者しか持っていないのである。世界が自律的に動く原理の必然性は全くないということだ。物質だけで構成される世界の存在する必然性は全くないということだ。必然性は、意味から生まれる。物理現象が生物とは独立して自律的に世界を構成しているのではない。

 

 つまり、順番と時間を与えているのは原「私」にほかならず(しかし起源は命だ)、この内部世界は単独では存在し得ないということだ。この内部世界は普遍性を持つ原理世界だが、各個人(各生物)がそれぞれ、外部的に内在している内部世界だ。「意味」が重要である。「意味」なくして何も生まれず何も動かない。つまり、私が原理性で支配されていて自由意志のない世界が存在する「意味」がない、と考える事は私だけの価値観ではないはずであって、この「意味」こそが、世界を駆動している。

 

意識の「私」は、無意識が原理によって再現した過去を知る。意識の「私」が知る世界は、無意識が原理再現性に回収した決定論的世界であるために、自由意志が否定されてしまうのである。既に原理によって再現される前に原「私」が選択している。世界は原理再現性の決定論的世界であるが、私が選択を与え続ける事によって、それを否定し続けている。これが無意識と原「私」の対立構造だ。決定論的世界、原理的世界を、自由世界に塗り替えているのは、原「私」であり、この原「私」は不確実性以外の何ものでもない。

 

 無意識の比率的世界構造、比率的指向性は、それだけでは何の選択も生じない。つまり欲望は提示されたとしても選択するのは、常に原「私」である。確率が提示されたとしても、確率を選択の基準とするのか否かは原「私」の選択だ。選択の瞬間とは、これでいいかどうかの二項対立に収束する。確率を選択の基準として選択場合に、既に選択は終わっている。つまりここで基準設定の選択が行われている。


罰と報酬、接近と回避、これが二項対立となっているのは人間だけだろう。理由は、意識という構造化メカニズムを持っているからだ。もっと下等な生物は、感覚や知覚によって知るのはむしろ、比率的世界構造である。これは無意識支配だ。恐怖で周囲を見ずに車道に飛び込む猫の行動は、意味の希薄な比率的行動であり、行動はすべからく行動という等価性を持ち、比率的であるということを示唆する。この場合、刺激はいかなる刺激も同じカテゴリーにまとまっていて分化しておらず、刺激と反応はグラデーション状にマッピングされているだろうということだ。これは進化に従って未分化のマッピングの傾向は希薄になるであって、猫は高等動物だからかなり分化しているはずだ。もっと下等な動物は、この刺激の等価性(刺激の強度の等価性ではなく、刺激というカテゴリー等価性である)レベルは高いはずだ。刺激が同一カテゴリーで未分化であるという事は、命の意味がまだ浸透していないということだ。このケースは人間でもある。死ぬつもりは全くないが、水を見ると飛び込みたくなり、ある時事故となって死亡するケースだ。またクジラなどの集団座礁行動は、集団的に命の意味又は価値が共有できるメカニズムがある事を示唆する。ベイズ推定などはマッピングが意思決定だと仮定しているようだが、それは下等動物の主たる意思決定手段である。マッピングは高等動物になるほど分化するが、比率的指標を利用した選択(マッピング)を行うか否かの選択は予め行われている。解離性同一性障害の人格交代はそれを示唆する。

 

新聞の購入理由をページ数や分厚さで購入するのは、比率的選択だ。見出しが面白そうだからとか、主義に合致しているから、という理由がある場合に、意味が付与された二項対立の選択だ(ただし、この選択は真の選択ではない。表層的で、選択のように見える(感じる)選択である。この意識で理解できる意味的選択は、真の選択が表象化したものであって、人間意識が獲得した機能だ)。比率性は温度計が良く表現している。目盛りからマイナスを除けば、比率だけが存在する。しかし、比率だけでは、全く選択理由にならない。マッピングだけでは何も決定されない。利用方法が決定されていなければ、ただ比率が存在するだけである。温度計を見るだけでは、部屋は暖かくならない、ということだ。選択は、究極には二項対立に収束する。辛い方が良いという人もいる。甘い方が良いという人もいる。ちょうどいいのが良いという人もいる。しかし、中庸は存在しない。なぜなら、必ず選択が生じているからだ。必ず二項対立に収束し、それでいいかどうかとなる。