(前回の続きになるが)

 

 

 そうすると、「私」は「私」という存在を意識に転写しているのではないかと思う。線形的な構造化メカニズムである意識に拠ってしか、「私」は「私」というものを感じる事が出来ない以上は、このように文章を書いたり感じたりしている「私」とは、意識に転写された「私」であるのかもしれない。何を転写するのかと言えば、「私」のイレギュラー性であり、反証の仕方である。

 

 以下、本来的で根源的な「私」と、意識に転写された「私」を分ける必要が生じたのだが、前者を原「私」(Prime Self)、後者を「私」と称する事にする。

 

 あらゆる原「私」はイレギュラーそのものであり、反証そのものであり、その反証の性質は唯一無二である。この原「私」の性質は、反証の創出の多様性によって規定されるだろう。原「私」は、全知である無意識とは異なる存在としての反証であり、無数の反証としての原「私」が唯一無二的に存在しており、存在してきたのである。

 

 原「私」は、線形的な時空間の経験によって、「私」をより精緻に意識に転写しようと試みるのである。この転写のタイミングは、人間の場合にはノルアドレナリンの分泌タイミングだと予想される。

 

 従って、原「私」は常に先行して、全知的な選択に対して反証を行い選択を決定している。原「私」は時間幅を持たない。原「私」は常に先行しており、「私」は後を追う形だ。原「私」はむしろ無意識だが、全知的選択を知っている無意識とは対立する。「私」という意識は、無意識の全知的選択と、原「私」の反証的選択の矛盾によって、苦悩や喜びを感じる仕組みだ。しかし、苦悩によってこそ原「私」の精緻な転写が行われるのである。原「私」は道徳を顕現させるために無意識から離脱したのであり、それは実在するために離脱したとも言える。快楽は無意識の全知的誘惑であり、不快であればあるほど、原「私」の反証としての道徳性を意識に精緻に転写する機会である。

 

 従って、「私」というものは、苦労し、様々な経験を積まなければ、現れない。原「私」の反証経験が少なければ、また小さな価値の反証しかなければ、その人は、普遍性の高い「私」に止まるだろう。普遍性の高い「私」とは、無意識に近い「私」である。また原生動物に近い「私」である。感覚器官の発達と多様性は、多くの苦しみ大きな苦しみを意識に与えて、原「私」を意識に精緻に転写するための進化といえるし、無意識との対立構造の結果だともいえる。

 

 人間が道徳的であるのは、感覚器官の進化形である意識によって、より精緻に、原「私」を転写できるようになったためだ。意識的生物であるために道徳的であるのではない。だから道徳とは程遠い人間も存在する。

 

 発達障害者は、この原「私」の転写の障害である。自分が何者か分からない。他者を真似て演技主義に陥りやすい。物語に感化されやすい。これらは、無意識的普遍性を示唆している。ただ、より無意識に近い存在である事は、全知性に近い存在である事も意味し、高い知性を持ち、また高い身体能力を発揮できる資質も兼ね備えているのである。

 

 また、今挙げた性質は人に騙されやすいという性質だ。予想では、発達障害者は原「私」の反証による「私」の形成ができず、また外部の反証に対しても脆弱である。このため、外部からの肯定でしか「私」を形成できない。

 

 意識的な「私」が、原「私」の転写であるならば、唯一無二のイレギュラーとしての「私」を形成できず、普遍的な「私」に止まる発達障害者において人格障害が生じやすい事と理論的には整合性がある。

 

―――――

 

〔補足メモ〕

 

・実は、もう一つの考え方が在る。完全な同一性を持った転写、複製は生物の世界ではない。このことから考えるに、一つの道徳が在って、その道徳を意識が転写する際に、イレギュラーが発生する。このイレギュラーが唯一無二の「私」を創っているのではないか、ということだ。

 

・発達障害者の操作が容易であるのは、選択のトリガーに普遍性が在るためだ。この事から、選択のトリガーは原「私」か、無意識かの二つあることになる。意識は追認するだけだ。

 

・たとえば、解離性同一性障害(DID)を人工的に創ろうと考えた場合には、まずノルアドレナリン分泌に際して、信号を増幅するとか、大きな音が発生するなど、原「私」の反証に意識的「私」が不快感を持つようにし、あるいは原「私」の反証が意識に刻印されないようにするフィードバックシステムが有用だ。併せて性的虐待を行えば、「私」はより無意識的、合理的、普遍的になるために、「私」の唯一無二性は希薄になるか、喪失する。無意識は欲望への一義的な忠実性であり、これは合理主義だ。絶望は無意識支配の契機となる。反証と言うタガが外れるために、欲望と感情に支配される。ロボットのように操作できるようになるかもしれないが、その場合はオキシトシンが重要な役割を果たすだろう。

 

 

・尼崎事件では被害者が加害者となったが、これは虐待と絶望によるストックホルム症候群の事例だ。虐待は、それまで醸成してきた「私」をリセットし、かつ、普遍的な「私」(合理主義的な「私」)にとって代わられ無意識支配となる。この状態はDIDと似ているかもしれない。