以前、私は、普遍文法は道徳を含むか、もしくは同義でさえある、と考えていた。しかし、無意識の最適化と原「私」の反証との対立、そして世界(無意識)が完全証明を志向し、私はそれに対して反証を行うという構図が徐々に明らかになってきたことで、この見解を改める必要が生じた。

検証の結果、普遍文法はむしろ無意識の最適化メカニズムそのものを表していると考えるに至った。普遍文法が原理として働いていることは明白であり、それ自体は反道徳的である可能性すらある。すなわち、普遍文法とは生物的合理性(=合理性)を表わす最適化原理である。

文章には主従の関係性がある。言葉自体も二重性を持つ。言葉の二重性は、たとえば私の事を私と称する事の二重性だ。時間差と空間的な誤差が生まれる。「私」において、二元論的な、私と私の同一性を持った分離構造が生まれてしまうのである。この分離構造は、「私」という言葉だけではなく、世界を説明し、指し示す全ての言葉に適用できる。言葉にすると同一性が二重になって微妙にずれた分離構造になってしまう。言葉にする対象を、言葉に閉じ込めて分離するという働きがある。これは対象の操作性向上とみる事ができる。操作性とは、遠隔操作という意味ではない。操作性とは、ある対象(物体でも説明でも)に確実性をもたらす事ができるという事だ。つまり私は、私と称する事によって私となり、私である。「廊下を走ってはいけない」という命令は、「廊下を走ってはいけない」と称する事によって「廊下を走ってはいけない」と化し、「廊下を走ってはいけない」のである。この確実性若しくは確定性と従属性は、まさに無意識の完全証明の指向性と合致する。この分離構造は離散的なものではなく、階層的である、とも付け加えておきたい。離散的分離は原「私」の指向性であり、階層性は無意識の指向性だからだ。

 

言葉は二元論の原理主義そのものである。規範を示し、従属者(一般には賛同者)を求める。同化指向で無意識の指向性と合致する。言葉は最適化された表象であり、普遍文法およびその下層にある言語文法には最適化の原理が埋め込まれている。ただし、言語は変化し続けるという性質は、道徳そのものである原「私」の反証が言語にも転写されてきた事を意味する。このため、言語の発生から数十万年を経た現代においては、文法の中にも道徳的要素が含まれている。

 

 

山下清氏は発達障害者だが、発達障害とは反証機能の障害である。彼の日記は言語に含まれる道徳を逆説的に明示している。

 

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言葉が完結しようとするのは、道徳のためである。それは言葉に反証を加えたために顕現した道徳だ。つまり、無意識の最適化原理である普遍文法に基づく言葉は、本来、完結せずに、延々と時空の終端まで続くべきである。完結とは完全証明を指すが、線形世界では完全証明は時空の終端まで先送りされている。原「私」が、完全証明に反証し、言葉を完結させようとするのは、不完全証明を行うためである。これは不確実性が存在している事を証明することであり、「私」の実在を証明する事だ。つまり言葉を完結させる事は、最適化原理の不完全証明であり、不確実性の存在する事の証明となる。他の生物の鳴き声も同様であり、下等な動物でも無意識や世界に対して反証し、最適化原理の不完全証明を行っているという事が証明されている。鳴き声や言葉が時空の終端まで延々と続くべきであるのは、完全証明は線形世界では為し得ないためである。言葉が文字という小さな系に完結され、あるいは音韻という小さな系に離散化されているのも同様に、道徳の顕現である。ここでいう音韻は、発声の際には鳴き声のような非離散性を残しつつ、鳴き声よりは離散化された音声単位である。(なお、学術的な音韻の定義とずれているかもしれないが、本稿では問題としない)。これは違いを創出しているのであって、それこそが反証によって離散化した事の痕跡である。つまり鳴き声は反証によって離散化されて差異が明瞭化された音韻となり、さらに反証によって母音と子音に分割され、それでも音韻では連続性を完全には遮断できないために、完全離散が明確な文字が創出されたのである。従って鳴き声も言葉も最適化原理に従えば、時空の終端まで延々と連続性を以て続ける事で、完全証明を行おうとするものである。言葉の完結性という時、完結性は意味論的な論理性や整合性の完全性だけではないということだ。論理や整合は二次的である。直接的には、世界の完結性であり、それは世界には時空の始端と終端が在って、閉じているということの完全証明である。しかし、閉じてはいない。不確実性が閉じさせないからだ。世界が閉じている事を証明する事は、世界が原理によって創出されている事を完全証明する事だ。算数のように。

 

線形世界では何事も証明できないが、不確実性の実在を証明する事ができる。これは矛盾しているように見える。しかし、不確実性の存在証明とは、何事も証明できない事の証明と同じである。何事も証明できない事によって、不確実性の存在が証明される。不確実性が存在する事によって何事も証明できなくなる。つまり「私」は実在するためには、何事も証明されてはならないのであって、何事も証明されない事によって「私」は実在できる。この証明問題が矛盾しているように見える理由は、我々の線形世界の証明可能性は内部問題として閉じていない事に起因する。つまり不確実性は線形世界を閉ざさず、その証明可能性に外部的な影響を与え、具体的には証明を不可能とするのである。

 

たとえば、算数で不確実性の実在を示そうとし、私は1+1=3が答えであると主張する。たとえば、賭け事で1万円負けた時には、私は「法律でギャンブルは禁止されているので払わない」、と主張する。算数は、この主張が通らず、不確実性は立ち上がらない。ギャンブルと法律は、この主張が通り、不確実性が実在できる可能性がある。つまり算数の世界は閉じているが、我々の世界は閉じておらず、最適化原理では動いておらず、不確実性が存在するのである。後者のケースでは、たとえ私の主張が通らず、相手の同意が得られない場合でも、私は賭けの勝者に、不確実性の実在を思い知らせるために、その論理的整合性とは無関係に、支払いを拒否し続ける事もできるし、執拗な取り立てがあるならば警察に脅迫されていると訴える事さえできるのである。算数世界では、これができない。しかし、算数世界を人間世界に拡張した場合に、閉じた算数世界は開かれ、先生に×をもらったとしても、哲学的解釈を繰り広げて、議論する事も可能だ。たいていの先生は算数の原理主義者となっている。算数の原理原則と一体化しているので、算数論議における先生には「私」が実在しておらず、私の反対証明は一蹴されるだろう。この時、先生は最適化原理であり、無意識支配である。それでも先生は算数世界という閉じた系を外部から観察できる立場に在るのであり、私の反証によって先生のイレギュラー性が覚醒し、出現する可能性もある。原理原則の正当性と確実性は記憶によって保証されているのであって、記憶が違うのであれば、1+1=3である事は正解ではないか?もし、教科書に原理原則が書いてあるのであれば、私はそれを記憶する必要性が無いのではないか?等々。

 

前回書いた通りに、何事も完全証明はできない。だから、このように文章は論理を完全証明するために、根源的には世界の完結性を完全証明するために、次々に文章を生み出す。私がいくら論理の破綻や矛盾を防ごうとしても、論理には必ずほころびがあって、キリがない。(しかし、私はそのことを知る事によって、論理性や整合性に拘らない、とこのように弁解気味に前置きする事ができる)。私がいくら文章を句点で終わらせても、次の一文を創作する欲望に駆られれば、終わりが無くなる。会話の言葉も同じで、完全証明の為に、話し始めると、次々に完全証明のために会話が続いていく。山下清氏の延々と続いて切りの無い文章は、前回書いた潔癖症の性質と同じだ。不確実性を消し去ることができないので、完全証明しようとすればするほど、文章は次々に延伸されていく。完全証明しようとすれば、文章は途切れなく延々と続く。彼の文章は、時空の終端まで延々と書き連ねる事さえ厭わない。今、擬人化した通り、彼が書いているのではなく、文章が主体となって書いているのである。彼は日記を書く時には、無意識の原理と一体化していて、つまり普遍文法と一体化し、さらに文章と一体化していて、没入・過集中の状態にあったということだ。写実的な貼り絵の制作時も、無意識と一体化していただろう。日記を書く時も、貼り絵制作時も、最適化メカニズムと同化していたということだ。

 

山下清氏は発達障害者だ。また延々と自分の話を話し続けたり、同じ話を繰り返す発達障害者も完全証明を目指して没入している。通常、この没入から離脱させるのは、原「私」によるイレギュラー(不確実性)の自己生成だ。発達障害者は、このイレギュラーの自己生成能力に欠損があり、周期性支配(同じ比率の反復による同位滞留)のために、常同行動あるいは同一性から離脱できない。

 

山下氏の原文には句読点が無い。古代言語にも句読点はない。この事から句読点、特に句点は、道徳であり原「私」の反証によって生まれたと考えるのが妥当である。文章を区切る事によって、不完全証明を行うのである。文章は完全証明を目指して延々と続くが、反証に拠って不完全性を証明するのである。以下に、区切る事の不完全性証明について解説する。不完全性、反最適化、反原理主義、反合理主義が道徳である事は、前回書いたのでここでは割愛する。

 

円環に閉じた世界(これは無意識の世界だ)に不確実性が生じると、延々と終わりのない時空が続く。円環で閉じた系は線形の時空となった場合に切れ目なく因果の連鎖が続く。この一つの系を細分化し、それはおそらくは離散時空という最小単位であり、それらをまとめた小さな一つの系が表象だ。幾つかの表象をまとめたものも、一つの系となり、我々の世界は重複する無数の系で構成されている。不確実性によって時空が生じたので、以下の説明は空論なのだが、不確実性の無い円環で閉じた世界を線形に変換すると、この無数の系や重複する系と全体はフラクタル構造で同一だ。線形に変換しない場合には、フラクタル構造という構造も無く、同一性だけがあって、全ては完全証明されている。直感ではあるが、何が証明されているのかを線形的に考えてみると、無ではなく0(ゼロ)である事が証明されているだろう。

 

全体性を細分化した系として区分しているのは、原「私」の反証であり、イレギュラー性だ。時空が切れ目なく続くのであれば、それは全体性を表現する。時空が不断の連鎖であった場合に、時空の始端から時空の終端までの全体の完結性を持っていて、全体の完全証明が保証される。これは完全証明された、という既成事実と同じである。しかし、離散時空又は小さな系に区切る事によって、完全証明は先送りされ、不完全証明されるのであり、表象とは不完全証明の証拠となるのである。また完全証明が為される時空の終端があるのかといえば、不確実性によって終端には永遠に到達できない。不確実性によって、閉じた系ではなくなったのであって、ゼロは証明されないのである。たとえば、出生から死までを完結系と見なすことは出来ない。世界に不完全証明の痕跡を無数に残してきているからだ。出生から死までの一人の人生の系でさえ、不完全証明なのである。しかし、亡くなった本人は「私」が消失し、完全証明される。原「私」は意識にイレギュラー性を刻印して意識の「私」を創出し(しかし二元論ではない。原「私」は「私」の最前線にいるのであって「私」と同一だ)、また世界にイレギュラー性を刻印し、消えるのである。刻印とは不完全証明だ。魂の再生などはない。イレギュラー性は唯一無二でなくてはならないからだ。我々(全生物、全存在)は、無意識的には同一だが、原「私」としては唯一無二である。魂の浄化を信じるカルト宗教が目指しているのは、無意識世界への同化であり、唯一無二性の非実在である。この無意識世界を体感することは出来ない。我々が通常考える魂とは、原「私」反証とそのストレス圧に耐えた事の刻印で形成される意識下の「私」のことである。魂を浄化するとは、この「私」を消す事だが、これは簡単で、寝る(ノンレム睡眠)だけでよい。だから世界の終末と魂の浄化を目指す人々は、他人に迷惑を掛けずに一人で勝手に眠っておればよいし、死ぬ必要もない。

 

離散時間という小さな系で不完全証明を行う事が選択であり、表象化であり、観察であり、行為であり、思考であり、感情であり、実在する事だ。完全証明された世界に存在することはできない。行為も不完全証明の証であり、行為が次の行為を生み出していくのは、無意識の完全証明の衝動に駆られている為である。連綿と不断の連続性を以て行為を実行し続ける事が完全証明への道だ。我々は、通常、あるいは正常であれば、連綿と行為を実行し続ける事はしないのであり、無意識とは明らかに対立しているのである。これは多動症を説明する。

 

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達成感や満足感も不完全証明の証だ。もし完全証明の段階に入れば、「私」は存在しないし、もちろん何も感じることはない。なぜ私がそれを知っているのかといえば、毎晩、ノンレム睡眠でそれが証明されているからだ。無我の境地は意識下では達することは出来ない。もし体感したのなら、それは無我の直前であって無我ではない。無我と意識は対立して併存できない。無我は「私」及び世界の非実在であり、意識は「私」及び世界の実在である。併存や統合の余地は全くない。ただ生存状態で無我に達した場合に、その人は無意識支配のAIロボットである。最適化原理に従う。解離性同一性障害(DID)や夢遊病の記憶無し行動は、「私」が喪失した状態だろう。没入・過集中の状態の過剰な進展だ。没入や過集中は日常的に見られ、スポーツ選手などでも記憶無しのケースがある(格闘技で顕著だ)が、その状態の進展のレベルは「私」の実在性のレベルで示されるだろう。

 

何も感じる事のない状態は、無気力状態とも似ているが、無気力は意識が覚醒しており、確かに「私」が実在しているのであって完全証明とは全く違うものだ。完全証明に近づくと感情が生じる。感情や感動は、完全証明に近づき、不完全証明が行われたということを意味する。もっと完全証明に近づくよう無意識が促すのである。無気力は一足飛びに完全証明を行おうとしているのであり、不完全証明の連鎖を回避しようとしている。何事にも達成感が得られないのは反証機能障害である。原「私」の反証が強い程、反作用として無意識は強い感情を生成する。無気力では、世界が自分に反証すること(無意識は原理に従属させようとする。原理の完全証明を指向する)に対して反証できない。無意識があるいは世界(世界は無意識の創った表象だ)が最適化原理を完全証明しようとし、原「私」のイレギュラー性に反証している事に耐えられないためだ。何をやっても駄目だ、という状況は、むしろ「私」の実在性を高めるのだが、耐性が無ければ原理に屈してしまう。原「私」の意識への転写が進んでいれば、世界の反証に耐えられるが、乏しい人生経験(例えばストレス圧の小さい環境に居続けた場合。これはその傾向自体が反証機能の障害である)では原「私」の転写が希薄であり、耐えられない。強いストレス下でこそ、原「私」の精緻な転写が行われるのである。これはストレス耐性と表現する事もできる。従って、経験値がほぼ無い幼少期の虐待は反証機能を障害する。

 

何事も行わない事は、反証機能が希薄であり反作用としての世界からの反証も希薄となる。これは意識の「私」が最適化原理と同化しつつあるということだ。モチベーションは目的性であり、無意識の最適化原理によって生まれる。目的性を持つ行動は合理性に基づく。合理性は生物性であり、物質性であり、無意識性である。モチベーションの生成は、原「私」の反証の強度が強い時に反作用として現れる。目的達成という最適化に向かうことは、最適化原理と同化することだからだ。ジョギングを行おうとする事は、最適化に反する行為であって、これは原「私」の自己生成したイレギュラー性である。合理性に欠いている。合理性は楽(らく、快)である。この自発的なイレギュラー生成は最適化の反証であり、無意識は反発して神経伝達物質の放出によってモチベーションを生成し、このイレギュラー性を最適化原理と同化しようとするのである。イレギュラー性を最適化原理と同化しようという働きは慣れや、習慣行動にも当てはまる。最初はイレギュラー性であっても、反復すれば最適化原理への同化だ。ジョギングは毎回同じペースで、同じ距離であるならば最適化原理に従属していて、原「私」の反証が希薄である。このため同じパターンでジョギングを続ければ楽になる。反証が希薄ならばモチベーションは生成されない。

 

無気力化は、苦痛や不快をもたらすイレギュラー性による不完全証明を放棄することによって、完全証明を行おうとするものであり、既に無意識支配の状態だ。原「私」反証の強度が高ければ、無意識はより完全証明を行おうとし、強い感情を生成し、完全証明へ導こうとする。従って、反証に伴う苦痛なしで一足飛びに完全証明には近づけない。一足飛びに完全証明を行おうとする者は、快楽に溺れ超能力にあこがれるのである。

 

かつて、快楽に溺れて超能力を誇示する、肥えた教祖がいた。無為は反証を行わず無意識の最適化に従属する事だ。この教祖は独房で妄想障害となり狂人となった。反証機能が障害されていて、実在を求めないのであれば、つまりイレギュラーの自己生成を行わないのであれば、つまり無意識への同化指向に偏っているのであれば、孤立によって非実在的な狂気の世界に陥るのは必然だ。実在の為のイレギュラー生成を外部依存しているからだ。彼の行動を不可解だと考えるのは間違いだ。彼は、無意識の最適化原理に従属していただけだ。彼は世界を完全証明しようとしていたのだが、その狂気は、元信者に受け継がれているのであり、掌握されていない元信者こそ危険極まりない存在である。

 

ジョギングは辛い感覚である時(意識の「私」が辛いと感じている時)、原「私」の反証の強度が高い。原「私」は最適化原理を反証し、あえて辛い行動を実行している。最適化原理はこの場合、「楽(らく)」である。無意識及び世界は最適化原理を証明しようとし、原「私」に辛いという感情をもたらす。肉体は物質性支配が強いが、肉体は原「私」にとって外部であり、世界だ。世界を表象化するのは無意識であり、知覚するのは意識だ。最適化された行動は、走るのを止めるか休むかだ。生物的合理性だ。もし走るのを止めたり休んだ場合には、最適化メカニズムに従属した事になり、原「私」の反証の強度が希薄になったということだ。だから楽になる。当たり前のようだが解釈の仕方である。意識の「私」は、原「私」の反証を後付けで知るのであって、常に反証し続けている事を知らない。しかも意識が知覚できる事は全て無意識が作り上げているので、意識は無意識の指向性に支配されやすい。それでも走り続けると、次第に辛さを麻痺させる神経伝達物質としてドーパミンやエンドルフィンが分泌され始め、楽になる。これも最適化メカニズムによるものだ。これらによってもたらされるは快情動は、不完全証明の証だが、完全証明に近づいた事も意味する。完全証明に近づくことは快楽である。これも睡眠導入時の、ノンレム睡眠に入る直前に至高の快楽が訪れる事でいつも経験している。同じペースを維持すれば楽だが、それは最適化原理の完全証明に同化することだ。もし、原「私」の反証能力が高ければ、ペースを上げたりして、反証し、完全証明から離れようとするのである。

 

走り初めに辛いのは、原「私」の反証の強度が高いために世界も反作用として反証強度が高まるからだ。この反証の強度は比率の問題であって、誤差の問題だ。ペースを維持すれば、反証の強度は比率的に弱まり、世界からの反証の強度も弱まる。同じペースである事は周期性支配(同位に滞留)の同化であり、相互反証は希薄化へ向かう。この状態の時が快楽系神経伝達物質が分泌されやすい。原「私」の反証が比率的に希薄になり、最適化原理が完全証明に近づいたからだ。しかし、完全証明でない事が分かるのは、「私」が確かに、その快楽を受け取っている事を知ることができるからである。「私」の実在を消すことまでは出来ない。「私」の実在を消す事が完全証明である。「私」が最適化原理と同化することが完全証明である。

 

反証が比率の問題である事は重要だ。つまり、同じ環境で同じような毎日を送る事は、反証が希薄で、反作用としての完全証明へ導く快楽系神経伝達物質の分泌が少なくなるという事だ。このため日常生活とは違う行動を指向する。この指向性は、最初はイレギュラー性である。しかし、休日にゴルフや釣りに行く習慣がある場合には、それは無意識支配であり、同化傾向が強いだ。新たな趣味にチャレンジしようとする事はイレギュラー性の発現だ。イレギュラー性によって目的が生まれれば、無意識は目的達成に協力するの前記した通りである。行為をイレギュラー性から、最適化原理に収束しようとする働きだ。

 

達成感はなぜ生じるかといえば、習慣行動への誘惑だ。辛い行為、困難な行為を成し遂げた時こそ、達成感が得られるのは、反証の強度が強い事に対する無意識の反作用である。

 

ノンレム睡眠によって、「私」も世界もゼロである事が証明される。無ではなくゼロである。「私」はノンレム睡眠でゼロとなり反証による不完全証明ができなくなる。細胞や器官は完全証明に近づき不完全証明を行っている。このため、ノンレム睡眠の直前に至高の快楽が訪れるのである。この快楽は細胞の不完全証明が完全証明に近づいた事の証である。そして「私」と世界はゼロとなり完全証明されるのである。

 

最適化原理と原「私」が同一となる事が最適解であり、原「私」のゼロが証明される。イレギュラー性は無くなる。無意識は感情によって最適化原理と原「私」を同一にしようとする指向性がある。このため最適解に近づくと、合理性(=生物的合理性)に基づく感情をもたらし、さらに最適解に到達するよう促すのである。もし物質的生存状態で、原「私」がゼロになった瞬間に、原「私」は消え、意識の「私」は無意識支配となるだろう。これは完全証明されたといえるのではないか、といえば完全証明されたともいえる。

 

イレギュラーがどこからもたらされているのか、それは自己生成と言えるのか、は不明である。少なくとも無意識の完全性と完結性からは、イレギュラーは生じない。従って、イレギュラーはもたらされているのではなく、予め存在している、と考える。つまりイレギュラーが生じた、という先行性だけが仮定される。ある絶対時間、たとえば今から何十億年前とかいう絶対時間を持たない。この先行性だけが仮定されるという意味では、生物の出現についても言えるのであって、生物は予め存在していて、先行性だけが進化論的に仮定されるというと言うこともできる。さらにいえば、人間は予め存在していて、先行性だけが進化論的に仮定されると言う事もできる。さらにいえば、近代以前は予め存在していて、先行性だけが歴史的に仮定されると言う事もできる。起点は先行性という比率だけがあればよいのである。なぜなら、そもそも我々の世界には比率しか存在せず、時間も空間も比率の表現基盤でしかないからだ。あまり言い過ぎると信ぴょう性を失ってしまうので、ここで止めておくが、少なくとも言える事は、生命は物質から誕生したのではないということだ。生命の出現によって過去における物質の出現と歴史が不確実性を以て固定されたのであって、生命の出現とはやはり絶対時間に固定されるものではなく、先行性だけがあるということだ。なぜなら物質のイレギュラー性は生物がもたらしているからである。

 

 最後に矛盾に見える箇所について追記しておく。ノンレム睡眠、生存状態での原「私」の喪失は完全証明であり、この線形世界では完全証明はできない、という主張は矛盾している。

 

この答えは、「観察者である限り完全証明はできない」、という事だ。

 

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 追記に追記を重ねてきたので、重複や未整理な部分が含まれているだろう。この追記の衝動は、無意識の指向性である。本稿は完成された体系の提示ではなく、フレームの提示である。細部の整合性よりも、全体の骨格を直感的に受け取ってもらえれば幸いだ。