役所の書類を提出して、問題なく受理された場合に、これは小さな系で目的を完結した事になる(無意識の同化指向性によって、この時感動を得る)。我々は、これで完結したと真に考えているかというとそうでもない。後々、問い合わせが来たり、問題が生じる可能性があり、不確実性は依然として存在している。たとえ、何十年経とうとも問題が発生する可能性や、問題を発生させようとする悪意のある誰かが現れる可能性があるのであって、この事を意識の片隅にひっそりと忍ばせているものだ。

 

 つまり完結する事、あるいは系を閉じさせる事とは、不確実性を一切消し去る事だから、これは永遠に不可能だ。つまり、これは完結した事を証明する事ができない、ということだ。

 

 何事も完結した事を証明する事は不可能なのであって、この事が我々の実在を継続させている。何事も反証可能であることによって実在している。これを「実在感を得ている」、と表現しても良い。

 

 過去は証明可能であり、最適解が残されているのかといえば、そうではない。マクロ的にはその事実の骨格を証明する事は可能だが(これが不不可能であるとするなら多世界解釈を展開せざるを得ないが、それはとりあえず控えたいと思う)、ミクロ的には証明不可能性はいくらでも残っている。現実は、最適解を表現したされた表象ではない。レベルで表示される最適化された表象である。つまり表象化できない現実が含まれているのであって、ここには不確実性がいくらでも存在できるのであって、過去が完結した最適解である事は証明できない。

 

 

 潔癖症は、完全証明を行おうとして達せられないために、延々とゴミや汚れを延々と消し去ろうとする。しかし、いくら汚れを消し去ろうとしても、いくらきれいになったとしても、不確実性が残るために、証明される事はない。彼らは反証を確かに行っている、清潔である事に対して反証を行っている。しかし、異常性は、この反証が最初の起点、最初の反証対象に対してのみ繰り返されている事である。これも同一性を求める無意識的働きだ。一つところに留まり続けるのである。部分は全体であり、全体が部分であるという世界を持っている場合に、その部分を完結させる事は全体を完結させる事と同じである。従って、ある部分に不完全性、証明不可能性を見出した場合に、その部分を除く他の部分に注意が注がれないし、その部分を完結させる事、証明可能とする事こそが全体を完結させ、世界を閉じた系とする事と同じとなるのである。この潔癖症も無意識の指向性を如実に物語っている。正常な場合は、その行為自体を反証の対象するのであって、また潔癖である事に対する反証を行うのであって、また反復に対する反証を行うのであって、一つの反証対象に滞留する事はない。完全証明を目指すのは、無意識の指向性である。意識は無意識の創った前表象(感情や言語以前)や表象で思考を行うので、無意識の指向性を知るのだが、原「私」は、この意識に現れる前表象や表象を反証の対象とすることができる。

 

 この同一性はイレギュラー性の欠損による周期性支配のためで、同じ比率の反復は、変化ではなく、同一となるためだ。イレギュラー性とは反証の自己生成能力である。通常、反復に対しては反証が働き、離脱しようとする。歌謡曲など周期性や反復に没入するのは、感情支配の状態だが、感情は無意識の指向性の表現型だ。それでも、通常は「飽きる」という反証が発生する。同じ歌謡曲を聞き続けるのは、求めて得られない何かを求めているのだが、求めているのは完全証明であり、不確実性の消去である事を本人は知らない。感情は不完全証明であり、不確実性を残したまま最適化された前表象だ。従って、感情を得た場合には、やはり不完全証明である為に、完全証明をしようとさらに感情を増幅させようと、何度も聞いたり、他のもっと感情を増幅させる音楽を聴いたり、あるいは他の欲望に満ちた行動に駆り立てるのである。それらの感情を求める行動とは、完全証明しようという行動である。何を証明し、何を完結させようとしているのか?総じて言える事は、最適化の原理を証明しようとしているのではないかと思う。潔癖症の事例は、「最適化」という意味で、字義通りであり、最も分かりやすい事例だと言える。つまり欲望とは目的性であり、目的とは線形の時空構造において必須の因果関係であり、原理である。原理とは合理性だが、生物的合理性と分けられるものではない。生物的合理性が合理性である。

 

 以上は発達障害者について述べたものだ。常同行動もこれで説明できるだろう。憎悪感情が増幅する事も説明可能だ。憎悪の対象を抹殺しようとするのは、潔癖症と同じ原理に基いている。