言葉の操作性とは、言葉にする事によって、その対象(文章化された事象の全て)に確実性を与える事ができるという意味だ。言葉は確定性(determinacy)、対象性(objecthood)を持ち、対象に確実性(certainty)を与える事によって操作性(operational capacity)を向上させる。(参照:「■普遍文法についての転換点と不完全証明について」

 

 言葉は表象としての対象と、言語化された対象という、階層的な二重構造になる。上層は言語化された対象だ。なぜ言語が上層か。例えば私を「私」と称する時、それは私が「私」であれ、という命令の意味を必然的に持つからだ。私を「私」と称する時、それは通常、私が「私」ではないという否定の意味を持たない(逆説的には、あるいは皮肉的には持つ事があるが、それは高度な反証的解釈である。大阪弁の「じぶん」は好例だ。「じぶん」は自分でもあり相手でもあり、選択は文脈依存である)。命令とは肯定させることであり、階層的な命令系統とは肯定の連鎖と表現する事ができる。これは無意識の性質と一致する。

 

 確実性を与える事は最適化する、という意味だ。完全証明を行おうとする、という意味でもある。表象はそれ自体が最適化されていて、完全証明に近い(線形世界では完全証明は出来ず、必ず不確実性が残る。表象は最適解ではない)。

 

 物の名前や、行為の動詞、というシンプルな主語述語の構文は、どのようにデフォルメしても命令的である事が明示されているのであり、言葉の起源または本質である命令系統をよく表わしている。事象の説明や解説、因果関係の説明は、二重の命令であり、ある命令系統を原理としての命令系統に則って命令している。つまり、言葉は原理を表す。言葉の表面的な意味、一次的な意味だけではなく原理を含んでいる。長い構文だけではなく、短い言葉でさえ原理を含む。原理とは命令系統だ。支配者は言葉、言語化された対象は従属者、というのは無意識的な最適化構造だ。ところが我々は従う時もあるし従わない時もあるし、確定されない。我々は不確実性によって選択を行っているのである。

 

 言葉を支配者と称するのは、言葉の擬人化だが、そもそも人格とは、原理とイレギュラー性だ。原理に対する原「私」の反証(イレギュラー性の実在証明=原理の不完全証明)の強度が強い程、人格的な生物になる。つまり人格とは、変遷を遂げて道徳を含むようになった言語文法と同じ性質を持っている。言葉が人格を持つ事は全く不思議ではない。また生物だけでなく、物質がイレギュラー性を顕在化する時、その物質は人格を持つ(観察者がその物体に人格を感じる)。従って、表象は人格を持つ。イレギュラー性が顕在化できない物体においては、「私」が関与する事によって、そのイレギュラー性を顕在化させようとする。これは「私」が世界からの反証を求めているからで、世界からの反証が強い程、実在感を得る事ができるためだ。言い換えれば、世界にイレギュラー性が実在している事を証明し、原理が不完全である事を証明しようとするのである。

 

 言語化は、不確実性の実在が証明されている世界(表象)に対する確実性の付与という無意識の指向性に従った欲求だ。この確実性はレベルで示される性質であって、確実、という意味ではない。表象となって知覚できるという事は、その表象が不完全証明されているという事である。観察者は、完全証明する事ができない。観察者自身が不確実性である為に、不確実性によって何事も完全証明は為されないのである。

 

 自己言及的な言葉は、「私」を拘束する。言葉はイレギュラー性を徐々に含むという歴史的な変遷を遂げてきたとはいえ、未だ無意識支配の人格であって原理主義者である。支配対象と目的対象を確定し、囲い込んで、確実性を与える。原「私」のイレギュラー性を喪失させようとするのである。宣言、行動計画、反省文、これらは原理主義の言葉を利用した自己拘束だ。他者や世界の事象についての言及も、他者や世界の事象についてのイレギュラー性を喪失させ、確実性を与える。

 

 危険なのは自己言及的な言葉だ。他者や世界についての言及が、他者や世界を直接的に変容させる事は障壁がいくつもあって困難だ。しかし変容させようという意図はある。世界を原理に従属させ世界から不確実性を喪失させようという無意識的意図である。世界に完全証明を実在させようという意図だ。自己言及的な言葉は、原理主義を体現し、言葉に固執するあまり、イレギュラー性を喪失してしまう可能性がある。この言葉の性質を利用することは、社会的生物としては正しい。ただ忘れてはならない事は、言語的思考は通常行わない。これは表象的思考は行わないということだ。表象的思考は確定性の高い思考であって拘束力が高い。通常は前表象的(あるいはもっと曖昧な前々表象)な思考なのであって、この思考は確定性の低い思考だ。

 

ここで、確定性と確実性の違いを定義すれば、前者は能動的であり、後者は状態・結果である。確定する事は不確実性を排除し確実にすることだ。もっとも「確実」は、この世界に存在できず、確実が存在している事を完全証明することは出来ない。確実性というレベルでしか存在できない。一方、不確実性は、実在が確定している。確実性の高低は、イレギュラー性の高低との逆比例である。能動的には、確定性の高低は、不確定性の高低との逆比例である。思考は能動的であるために、確定性という語を用いた。

 

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統合失調症で言葉が聞こえ、人格が現れるのは、無意識支配となって、確定性の指向性が異常に強まっているためだ。原「私」のイレギュラー性が弱体化、希薄化している。言語的思考は表象的思考だが、さらに音声化されているので、表象の確実性が高い。従って原理主義者となる。その言語的世界と外部情報による因果関係を信じて疑わず、他者の客観的見解を受け付けない。原理が支配するフラクタル構造の循環に陥って、原理から離脱できなくなる。また普段から言語的思考を行っていて、原「私」のイレギュラー性が弱い(反証機能の障害)発達障害者は、統合失調症にり患しやすいはずだ。