無意識はフラクタル構造の世界を持っており、部分が全体を表わし、全体も部分を表わす。現実世界は、確かにこのフラクタル構造の近似値だ。このため一般原理から個別事例を導く演繹的推論が可能となり(全体が部分を表わす)、また個別事例から一般原理を導く帰納的推論が可能になる(部分が全体を表わす)。ただイレギュラー性によって完全証明はできないのであって、最適解は得られない。確率論的な最適化しかできない。

 

 しかし、無意識は階層性も持っている。それは言葉の構造に顕著だ。無意識的世界はフラクタル構造と階層性という矛盾を持っている事になる。フラクタル構造は、どこでも、同一である。しかし、階層は差異を表わす。明らかに矛盾している。これはフラクタル構造の線形変換によるものだ。フラクタル構造の完全証明性を線形世界にもたらすと、階層性と絶対的な従属性が要請されるのである。その意味では、フラクタル構造の世界は、線形化する前の原「無意識」的世界だ。

 

 階層とは順序であるが、序列を持った順序である。時間も序列を持った順序である。空間も序列を持った順序である。昔起きた出来事よりもつい先ほど起きた出来事の方が信ぴょう性が高い。距離的に近いものほどより明瞭に見えて信ぴょう性が高い。時空も認知も自己参照型で、自分に近い程、信ぴょう性が高く、信じやすい。階層だけは自分より遠い程、偉い。「偉い」と「信ぴょう性」は、とりあえずここでは同義だとだけ書いておく。神は天上にいる。平社員は社長や重役とは滅多に会わない。殿様は、奥に控えて、下級の家臣は見えない所に居るか、座敷の遠い場所に座る。この家臣は、また顔を上げてはならない、ということも重要だ。見えないということが、序列に重要である。

 

 階層性は最適化原理の一つであって、合理性だ。絶対服従は不確実性の排除であり、合理性だ。肯定の絶対連鎖こそ合理主義だ。無意識は線形的に、世界に不確実性が存在せず完全証明が可能である事を証明しようとしている(これを完全証明しようとしている、と表現する)。もし絶対服従であれば、世界は原理で支配されている事が証明される。不確実性の存在しない絶対的な原理支配は、フラクタル構造と同じ意味を持つ。従って階層性は無意識の指向性と考えて問題ない。

 

 信ぴょう性の序列の配置が、時間と空間では自己参照型で自分が中心に在る。自分に近い程信ぴょう性は高い。階層もやはり自己参照型だ。時間も空間も原理に忠実である場合に、肯定の連鎖だ。連鎖しているのは原理である。時間も空間も絶対服従の階層的である場合に、その骨格は肯定の連鎖であり原理支配だ。しかし、原「私」の反証によって原理が不完全証明された場合に、表象が現れ、原理支配を否定する。

 

 感覚とは表象である。そして表象とは不完全証明されたことの証である。時間が不確実である事は誰もが体感している。同じ時間(時計時間)でも、早いと感じたり遅いと感じる。一方、無意識の確定性が強い場合には時間感覚が優れて正確だ。これは才能である場合もあるし、集中すればだれでも経験できることでもある。空間も、不確実であり、同じ距離(地図的距離)で遠いと感じたり近いと感じる。これも確定性が優れていると、正確に分かる。確定性を超越すると、今度は時間感覚も空間感覚も無くなる。スポーツ選手に、その証言がいくつもある。「私」が観察している時、完全証明に近づいたといえる。「私」が喪失していて記憶無しであるならば完全証明の領域だが、「私」不在、つまり観察者不在なので証明はできていない。完全証明の領域に進めたとしても「私」は消失しているので、結局「私」はこの世界での完全証明はできないのである。

 

時間も距離も比率と倍数だけが確定しているが、その最小単位は絶対値として確定していない。ここに重大な不確実性がある。たとえ比率と倍数が確定しているるとしても、何の証明にもならないということだ。なぜなら、それは循環論法になるからだ。完全証明には、最小単位の絶対値を提示する必要がある。しかし、この最小単位の絶対値を提示できないという事は、最小単位は原理を持たず、いかようにも変動する事が可能であるということなのだ。

 

しかも、不確実性は、この部分だけではない。世界に確実という最適解は存在できず、確定性という能動性と、確実性というレベルで示される状態しかない。もし確実というものが存在できるのであれば、また完全証明が可能な世界であるならば、この表象的世界は構築されない。表象は不完全証明の証である。フラクタル構造の世界は、世界という様式を持たない世界である。

 

 最後に時空と階層の矛盾的配置について。時空に配置された表象は自分に近い程信ぴょう性が高いと考えられている。しかし、階層は遠い程、偉いと考えられている。神は天上だ。この矛盾を解決することにする。

 

 自分に近い程、表象が明瞭であればあるほど、むしろ不確実性が明確になるのであって完全証明から遠のいている。遠い場所の方が表象が曖昧で完全証明に近い。見えない場所や知らない場所はむしろ最適解であり、完全証明されている(しかし、忘れてはならないのは観察者は完全証明できないということだ)だろう。このため最適解を求めて、見知らぬ土地への探索行動が誘発される。しかし、見てしまうので最適解には到達しない。近づくにつれて最適解から遠のいていく。つまり自分から遠い程、知覚の限界に近づくほど信ぴょう性(完全証明性)は高まり(不確実性の減衰、反証強度の希薄化)、それは自分から遠い程偉くなるという階層性と同じ意味を持つ。信ぴょう性とは確実性の認知的表現であって、確実性の存在性である。「私」に近い程、確実性の存在性が高まる。しかし、確実性の存在性が高まるという事は、不確実性の存在性も高める。「確実」は存在できず、確実性しか存在できないために、証明されるのは確実性というレベルだ。確実性の存在が証明される事は、不確実性の存在を証明する事と同じである。これが不完全証明だ。従って、時空間的な今の「私」は最も確実性の存在性が高いことによって、不確実性の存在が確定的な存在であると言える。しかし、これは逆説だ。「私」とは不確実性そのものであるからだ。「私」は不確実性であることによって、今の「私」の確実性の存在性を高めるのであって、それは実在性を高めている事を意味する。従って、この世界において、今の「私」が最も実在性の高い存在である。遠くなるに従って、世界という存在は確実性を弱め、不確実性も弱まり、それは実在性を弱めているということになる。