虚偽自白は尋問者による洗脳だが、その仕組みは自己洗脳だ。無実の容疑者が犯人を演じている、と前回前々回書いたのだが、これは元々人間に備わった機能が、そのように作動しただけだということだ。つまり人間は自己像を演じている。ただし、ユング心理学でいうようなペルソナ、すなわち外面的に取り繕った自分があり、本当の自分は別だという考え方は,間違っている。本当の自分などはない。本当の自分は、こうだ、と考えている自分とは想像であり、夢想であり、虚構だ。ただ、そのほんとうの自分を演じたいという強い願望があれば、理想の自己像を演じるようになるかもしれないということだ。それが自己洗脳であり、自己像の修正ということになる。この自己像の改変が、密室の取り調べ、対人コミュニケーションの激減、逮捕というショッキングな出来事(それは絶望に近い)によって、促されるということだ。

 

 洗脳という表現や,演じるという表現も大袈裟かもしれない。それは普通の人間の精神活動と言えるからだ。プライミングによって自己像は変わっていくということだ。プライミングの教示者は、会社の同僚であり、家族であり、友人であり、あるいはただの知り合いであり、通りすがりに見かけた誰かであり、尋問者でも、テレビでも、映画でもいい。

 

 幼少期から人は自己意識と他者意識によって自己像を生成していく。自分がどのような容貌かを知るには、鏡が必要であるのと同様に、自分がどのような人間かを知るには,他者と他者意識が必要なのだ。しかし他者意識は推論でしかなく、真の他者意識は永遠に知る事はできない。(なお、鏡に映る自分でさえ推論であり、見ているのは真ではない。それは感覚器官からの情報をトップダウン処理、即ち推論した結果だ)。他者の言動から推論していくのである。他者の言動はプライミングと言い換えられる。このプライミングは、人間からだけでなく世界(外環境)からも受けることになる。あるいは他者も外環境の一つだ。行為と反応によって推論を積み重ねていく。幼少期から自分は「どのような人間か」ということではなく、「どのような存在か」を探求していく。それは永遠に知る事はできない。だから想像上の自己像を演じる。自分は、このような存在だという仮説に基づき、その仮説を得ながら、その仮説=自己像を演じるのである。

 

※生まれたばかりの赤ちゃんを暗闇で何年も育てる実験は、民主主義国家では実施が不可能だと思われるが、テクノロジー犯罪の加害システムを開発するには、この実験が必要だ。

 

 少なくとも自分とは、空っぽな入れ物だということはいえる。

 

 狼少女が昔インドで発見されたというニュースがあり、その後、ねつ造ではないかという疑惑が持たれたのだが、私は全くあり得ない話しではないと考えている。

 

 チベットのダライ・ラマの選定と人間的成長は、人間が空っぽな入れ物である事を示している。ダライ・ラマが亡くなると、占い師のような人が、あそこに生まれ変わりの子供がいるという宣託を行い、関係者が探しにいく。そこで特徴が一致する子供が選ばれ、教育が行われる。ただし、この宣託と選定には、なにやら胡散臭いものがあると言われている。それは河口慧海のチベット旅行記に記してある。金が絡んでいるそうだ。現在のダライ・ラマはニュースや新聞での言動を見ると、人格者のように思える。それは、そのように育てられたからだ。誰でもダライラマになり得、誰でも人格者になり得るのである。

 

 会社の同僚で、人間的に少し難がある人が居るとする。ワンランク上の役職を持っている。嫌味で嫌なヤツだ。上に媚びて、下には横柄な態度をとる。ある日、その人がさらに上の立場になって、事業所の責任者になる。すると、その人は“変わる”のである。以前の、不公平さや人間的問題点は次第になりを潜めていく。次第に、立ち居、振る舞い、言葉もそれらしくなっていく。

 この時、私は、本当はこういう人だったんだな、と思った。しかし、それは違うということだ。人はいかなる人物にもなれる。

 

 皇室の人に悪い人はいないように見える。実際のところいないだろう。みな国民の健康とか人類の平和を考えているだろう。それは生まれた時からそのように育てられたからだ。

 

 半島の王様もまた然りだ。彼ははじめから選択され、そのように育てられたのだ。

 

 イーロンマスクは自らがアスペルガーであり、いじめられていた事を公表しているが、彼は今あきらかに復讐を果たしている。彼は動物的だ。感情に支配されている。人は常に想像上の自己像を演じているのだから、彼は、そのような復讐を行う人間になる事を夢想しながら生きてきたのだ。彼は成功し、自己実現し、権力を得て、発言力を得た。アスペルガーの典型的な復讐のパターンだ。そのような彼の自己像の生成に与していたのは何かといえば、いじめっ子だけではない。侵入思考だ。本能から沸いてきている感情の、未だ言葉に翻訳されていない抽象的なイメージだ。

 

 さて無実の容疑者の話に戻れば、空っぽの入れ物である人間の、自己像を修正するには尋問室は最適だということだ。辛さから逃れるための、やはり本能からの感情の支配を受けていたのである。罪を認めて、直ちに辛さから逃れようとするのは、動物的本能からのささやきに応じたためだ。その即時的な、今、楽になれば良いという、未来や将来の計画を全く考慮にいれない考えは、人間的な理性的な合理的な知性に基づく自己意識の選択肢ではないのである。餌を与えればいくらでも食べる金魚の脳と同じ脳の領域が彼に指示を出したのである。尋問室は、それを受け容れさせる環境なのだ。

 

 人間には二つの意思が併存している。例えばジョギング中に辛くなる。辛いが走る。辛いからすぐにでも走るのを止めたいと思っているのに、走るのである。あるいは逆にダイエットのため健康の為、記録の為に、走り通さなければならないと考えているにも関わらず、走るのを止めるのである。走るのを止めたいのに走り続け、走りたいのに走るのを止めるのだ。止めるのは感情に支配されたからであり、走るのは理性が勝ったからだ。それは人間の勝利だ。辛くても走り続ける時こそ、“人間”が走っている。ドーパミンやエンドルフィンの助けを得て、快の状態で走るのは、動物的なのだ。

 

 ジョーカーを演じていた彼も、自己像を修正し、自己洗脳の過程にあったのである。そして逮捕後に洗脳が解けた。自己洗脳の“過程”だったからだ。

 無実の人が自首するのは、彼と同じプロセスを経ている。彼は映画からヒントを得たのであり、無実の人の自首は、ニュースからヒントを得たのである。教示者は映画とテレビという事になる。尋問室の教示者は尋問者だ。

 

 少し極論過ぎたが、概ね、これで合っているはずだ。

 

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 テクノロジー犯罪の被害者と認識し、本格的な加害初期の2ヶ月、私の演じていた自己像は明らかにそれまでと変わっていた。

 

 

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ホームページ『テクノロジー犯罪の記録と証拠』に加害の為の手続き作業を行っている人間の録音記録を掲載してあります。

テクノロジー犯罪の記録と証拠 (newspeppercom.wixsite.com)