歳をとると、過去にビューンと飛びたくなるようだ。今朝も母は亡き父の大好きなコーヒーの銘柄を語っていた。週末の眠れない夜には、「コールドケース」を観る。アメリカには、時効がない。20年から30年前の未解決の殺人事件を再調査して犯人を暴いていくアメリカのヒューマンドラマだが、毎回、事件が起こった当時のヒット曲が数曲使われる等の独特の演出が視聴者から高く支持され、北米では屈指の高視聴率となったそうな。その音楽は、時にこの私の人生をもトレースしてくれる。かつて嵌まった人気ドラマ「24」と違って、犯人が捕まっても、どこか切なさの残るドラマでもある。
寒さも和らぎ今年最後の紅葉日和となった土曜日、ゴメさん率いるミステリーツアーへ。仙台駅を9時半に出発する仙山線に乗って我々が向かったのは、なんと面白山高原駅。滝の水流が面白いことからこの名が付けられたという。その昔、そこはスキー場だった。学生時代に一度だけ訪れたことがある。一瞬だけあの頃の自分に戻る。確か頂上まで行ったけどみんなのサポートを受けてやっとこさ滑り終えた。それ以来スキーはやってない(笑)今は、山の斜面にコスモスが植えられて、コスモスベルグという名称に変わっていた。駅を降り、紅葉川渓谷のハイキングコースを進む。渓流沿いの岩で一休み。よしえちゃんの手作りお稲荷さんとワインで乾杯…辺りには沢山のトレッキングを愉しむグループが散策している。外国人も。目の前に現れた荘厳な滝は、藤花の滝という。その名をとったのだろう、駅前にある藤花山荘の食堂。先日ゴメさんがこっそり訪れて、女将の人柄に惚れてこの呑みツアーを企画してくれたってわけ。韓国人の彼女の作るキムチやチジミは本場もんで旨い。お隣の席では山登りの団体客がワイワイ芋煮会を行っていた。皆、65歳は超えていると思われるけど、とっても楽しそう。お腹がいっぱいになり、気になった冷麺とマッコリは次回のお楽しみにとっておくことにして、電車を待つ。無人駅なのに、ハイキング帰りの方々がホームに溢れていた。来月からは雪が舞い、春まで閉山となる。山もいいもんだね。
ローカル線の旅で何度も乗った仙山線だが、ここ面白山高原駅で途中下車することはなかったな。コールドケースのように、過去の思い出にちょっぴり触れてみた。事件は解決しても亡くなった人は戻らない。そうそう、今日はアンディの月命日。
東北楽天ゴールデンイーグルスが日本シリーズを制し、初優勝した。おめでとう!
王手をかけた前日の敗退は、野球に興味のない私でも、どこか力が抜けてしまって、お店の帰りに佐伯さんとこに寄ってしまった。そこにスタジアムから戻ってきた応援部隊が合流し、残念会。彼らは幸運にも明日のチケットも手にしたらしく、明日は決めますよ!と意気込んでいた。そして、その通りになった。私も、翌日鍋をつつきながら熱燗で祝杯をあげた。震災後、絆とか、負けないとかいう言葉が安売りされてたけど、この日だけは宮城の人間が一つになったような気がしたのは、私だけだろうか?母だけは、最後までジャイアンツを応援してたけど(笑)
もう一つ、同じ日。スパゲティナポリタンの日本一を決める「ナポリタンスタジアム」が横浜市内で開かれ、仙台市の専門店「東京ナポリタン⑧」が最高賞のグランプリに輝いた。娘が入院中、さくら野(一号店)に寄ってテイクアウトを何度か注文したが、学生時代の懐かしき味、確かに旨い。
今日は、吉田ちゃんの誕生祝いを弟分のヒデキと一緒に祝う。場所は自称グルメのヒデキセレクト、お好み焼き&鉄板焼きダイニングHONA。ここの料理とワインは絶品である。吉田ちゃんとはかれこれ20年のお付き合い。彼女のお陰で、私は前職で全社一の成果をあげることができたと言っても過言じゃない。そして、ヒデキとはお店のお客様として12年のお付き合いとなる。今では姉貴と慕ってくれてるが、私の弟なら絶対命令なんだけど、いいのかな(笑)ゼネコンの幹部なのに、という言い方は失礼かもだが、実に心の綺麗な人間で、一緒に居るとこちらの汚れた心が洗われるようないい奴である。
店の立ち上げの時に様々なアドバイスをくれた方々、ちょっと落ち込んだ時に沢山の元気をくれた方々。そうそう、店の引っ越しも仲間の力をお借りした。何の誇れるものなどない私だが、熱き家族といい仲間に恵まれた。無論、人生の終盤を生きる上で、他に何を欲するというのだろう。
お酒は別だけど。死んでも呑みたい(笑)
昨晩は、照井さんとユーミンの曲を流して大声で歌って、今週を〆た。貴方を思い出す。この店に来るたび。坂を登って今日も一人来てしまった…山手のドルフィンは…
明日晴れたら、海を見に行こう。小舟のお母さんに会ってこよう。寒くなる前に、ちょっと昔の自分に会ってこよう。
私の父は、高卒で建設省、今の国土交通省の建築課へ入った。母曰く、当時の建築課内の図面書きではNo.1の腕前だったそうな。まだ、CADなどというコンピュータソフトが開発されていない時代のことである。父は、週末に図面を持ち帰り、遅くまで家で仕事をしていた。居間の隅に置かれたドラフター(製図台)は、私達兄弟にとって父の聖域、触れることは決して許されなかった。そこへ父が座ると、家じゅうにピンとした空気が張り詰めたことを、今でも思い出す。父の上司は、彼の才能を伸ばし昇格させようと、夜学に通い大卒の資格を取得することを勧めた。しかし父は、生涯図面を描き続けることが夢であると言って断ったという。その言葉通り、退官した後も民間の建設会社へ移り、71歳まで大好きな図面と向き合い続けた。幸せな人生だった、とおもう。
私や弟に対しても、進学や就職、そして結婚する時、父は、自分のことは自分で決めろ、そして失敗しても自分でケツを拭け(下品でごめんなさい)と一言。思い起こしても、寡黙な父ゆえ、それ以上の叱咤や激励の言葉は記憶にないが、子供が自立するにはそれで十分だったと思う。離婚して実家に戻り、同居をお願いした時も、無言の厳しさがあり、甘えは一切許されなかった。その後、子供達も成長し、私がお店を出す時に、父の何気無い一言。それは、父の遺言ともいうべきものだったと、今になって思う。「生きる上で大事なのは、知恵と根気とそして人脈、まぁいい出会いということかな。真摯にやってれば金は後から付いてくるものだ。」
そして、13年の月日を経て、その言葉通りであると確信する。沢山の出会いがあり、沢山の仲間たちに支えられここまで来れた。まだまだ、この先茨の道が続いていても、そんな仲間たちに勇気を与えてもらうことだろう。生きる上でもう一つ大切なこと、そこに深い感謝の気持ちを忘れないことを加えたい。何故なら、人間は一人では生きていけないからだ。今日も、子供病院へ付き添う。まだ、一人では何もできないモンスター。そして、家のことが出来なくなった母に添い、切に思うのである。