こんにちは。
以前、エレガンスという言葉について書いたことがありましたが、
エレガンスとは選択という意味があるんです。
選択できる状態と言ってもいいと思うんですね。
それは、愛そのもの。あなたそのものであるとも言えます。
ここで紹介しているすべてのプログラムにも流れるエネルギーなんです。「The生命の花」では、まずそれを一番最初に言っていますよね。なぜなら、それは神性そのものだからなんです。
ふと、こんな記事を見つけました。とてもいい記事なので一部紹介したいと思います。
●第3回 エレガンスについて≪前編≫
https://www.premium-j.jp/curators_eye/saito/71743/
なぜ今、エレガンスなのか。全てが忙しく動き変化する現代、こんな一昔前のボキャブラリーのような言葉を持ち出すのは時代錯誤なのではないか。と思われる方も多いのではないかと思う。効率とスピード、そして何よりも結果が求められる現代の世の中で、優雅さや品格をイメージさせるこの言葉はもう過去のものであろうか。私は今だからこそむしろエレガンスが求められるのではないかと思う。
エレガンスといえば、一見ファッション用語と思われるかもしれないが、その語源はラテン語で、選択眼を持っていることを意味し、転じてセンスの良いことを指す単語である。エレガンスもセンスも日本語に訳されず、日本人はそのまま使っているのは、まさに感覚や知覚に関係する言葉なので、日本語の語彙に完全に当てはまる言葉がなかったのに違いない。エレガンスという言葉は日本では確かにファッションの分野で使われることが多い。洗練された服や装いそれ自体ををエレガントと言ったり、それらの選択や組み合わせをエレガントと表現したりする。この言葉のニュアンスには日本語の優雅、洗練、品格、調和といった貴族文化に属する言葉が含まれ、事実、ヨーロッパではフランスやイタリアやイギリスなど宮廷文化が栄えた国でよく使われるボキャブラリーである。フランス語の「élégance」は、単に身に付けるものに関する選択の良さだけでなく、人の表情や身のこなし、立ち振る舞い、そして言葉の表現の美しさや巧みさまでを語る時に使う言葉であり、エレガントな服、エレガントな装い、エレガントな立ち振る舞い、エレガントな表現、エレガントな人、エレガントな生き方というように、人に関係するあらゆる部分に使われる。こうなると人の生き方、存在のあり方までを表すことになってくるので大ごとである。
ファッションにおいても、これ見よがしに美しさやものの良さを見せびらかしたり、自分の価値観を押し付けたりするのはエレガントではなく、突飛なデザインやあまりに奇をてらった装いは他の言葉で賛美されても、エレガンスという言葉は使われない。相手をびっくりさせたり傷つけたりするような攻撃的な表現ではなく、あくまでも控えめでその場の雰囲気を考慮しながら、相手にも心地よさを生み出す状況を作ることがエレガンスなので、どこかでマナーとも繋がっている言葉だとも言える。
日本には粋(いき)という言葉があり、江戸ではいきといったのに対して京都では粋(すい)と言い、その反対語は無粋(ぶすい)である。ただ江戸の粋という言葉には、ちょっとひねりが効いていて、どこか達観しているところがあり、素直にセンスがいいという意味のエレガンスとはやはり異なるような気がする。粋の話についてはまた別の機会に譲るとして、エレガンスの反対語のフランス語はイネレガンス(エレガントでない)という単語が存在するもののあまり使われない。それよりもgrossier粗野という言葉や、disgracieux不体裁というように、より直接的に否定的な表現をすることが多い。従ってエレガンスの反対は、相手に不快感を与えることであり、エレガンスとはまずは相手を不快にしないことで成り立つ言葉である。
このようにエレガンスは社交の世界でよく使われる言葉であり、相手を尊重する精神なしには成り立ち得ない。私がフランスの会社に勤めていた頃、ある社員にその人にとっては必ずしも嬉しくないことを伝えざるを得ない時、役員同士でよく議論したのは、どのようにエレガントなやり方でそれを伝えるかだった。フランスでは数学の問題の解き方でも美しい解き方をエレガントな解き方といい、同じ「正解」でもエレガントでない解き方は賞賛されない。結果が全てではなく、ものごとの過程におけるスタイルが大事なのだ。外交の国でもあるフランスでは外交用語でもある。外交においては単に協調性だけが求められるのではなく、当然自国の利益に鑑み、言い分をはっきりと訴える必要があるのはいうまでもない。ここでも国家間の交渉で、求められるのはエレガントな交渉術であり、相手国にとっても自国にとってもエレガントな解決方法であったり、エレガントな着地点であったりする。
ここから後編(https://www.premium-j.jp/curators_eye/saito/71748/ )にも続きますが、よかったら読んでみてください。
本当のわたしから離れれば離れるほどに、その品性、エレガンスさは失われていくものだと。
なぜなら自我たちは品性(神性=愛)を求めて、さ迷っているのですから。
自我であればあるほどに、落ち着きなく、慌てふためき、いつしか言動もがさつになってしまうもの。自分自身、他者への扱いも粗雑になり、周波数が落ちてしまうんですね。
そうなると本来の世界からは遠のいてしまうんです。
昨日、「美しい人」についてセッションで話しましたが、
美しい人とは、自分自身が本当は何であるかを知っていて、なおかつ、自分がどうしたいのかその本音のままに生きている人だと。もちろん、嫌なことは嫌だと言える。周囲に合わせて、「いいよ、いいよ」と言うのではなく。ちゃんと、自身の心に正直に素直に、言うことができると、スッキリしますよね。
それは決して相手をコントロールするために言っているのではなく、「わたしはこうです」と存在を明確にしているんです。そこに嘘があれば、現実は澱んでいく。人間関係も、澱んでいくでしょう。空気が澱んでいるときというのは、マインドに入り、嘘をこねくり回しているときなんですね。
ですから、本当に純粋な芸術家、アーティストは、いつのときも嘘をつきませんね。それほどに、自身を見つめていると言ってもいいと思います。
そして、自身に正直であればあるほどに、
自然に肉体の贅肉も取れ、肌も艶やかで美しく輝くものだと。
一瞬、一瞬の輝きを放つものなんだと(もちろん、変容の過程ではそうではないときもあります)。
それは年齢関係なく。どんな瞬間も、言動に品が宿っているというのか。表面的に装うものではなく、もともともっているものです。
品というのは、愛そのもの、光そのものであるんです。
神性が人間を楽しむとき、それは粋でいて洒落感もあるものだと。
そして、それが自然で、もっとも楽で健やかな状態であると思うんですね。

みんなホントは笑ってる
ずっと待ってたんだ。キミが素直になるのを
You are GOD also.

「 わたしを生きる」
ありがとう。reiko