Rev1 見よ、彼が、雲に乗って来られる | 新教会牧師書斎の窓

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新教会牧師が、善い生活とは何かと問い、実行しながら、綴るブログです。

 見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。(1:7)

マタイ福音書・マルコ福音書にも、人の子が天の雲の中に乗って来る、という表現があります。
雲は、空に見える雲ではなく、み言葉の文字上の意味です。雲の上に乗るとは、馬に乗ることがみ言葉の理解を示しているように、み言葉の知恵を持っておられることを意味します。(AR24)
み言葉は、私達と神的なものとの唯一のコミュニケーション、交流の手段です。

また「全ての目が、彼を見る」とは、情愛から神的真理を理解するが、ただ「見る」だけで、受け入れないことを意味します.
突き刺した者とは、ヨハネ福音書には、 「兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。」(ヨハネ19:34)とあり、この兵士のことを指していると思われています。しかし、この血と水は、神的真理の霊的なものと自然的なものを意味します。さらに、ユダヤ教会が、偽りによってみ言葉を破壊することを意味します。
「地上の諸族が嘆く」とは。教会に善と真理が残っていないことです。
私達も見るだけで、受け入れていないことがあります。腹を立てたり、小さな嘘をついたり、情欲を持って画像を見たりと、神からの戒めとして守っていないからです。しかし、主はご自身をこうおっしゃいます。

「わたしはアルファであり、オメガであり、最初であり、最後である」(1:8)
教会の式文で、毎回使用される句です。αとΩは、主の神的愛に関するもので、最初と最後は、神的知恵に関係します。主は天界と教会のすべてであることが述べられています。主は、「全ての源」です。全ての源ということは、全宇宙のすべてが、主と何らかのつながりを持っています。主は最初から死後に至るまで、すべてを支配されています。これは今まで明かされていないアルカナです。

教会の式文を読み聞きして、主が万物の支配者であり、全能であることを意識できるなら、「神の愛と知恵」の書等を学び、深く理解されています。しかし、単なる大げさな言葉、文句として聞くなら、改めて学びなおし意識する必要があります。

「わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。」(1:9)
パトモス、は神の礼拝からやや離れていますが、それでも従っている状態で、明るくされることができる状態です。
アジアは、礼拝の行われるイスラエルから、距離的には離れていますが、接近できる距離です。
神への礼拝を続けていること、これが明るくすることができる位置です。(AR34)
ヨハネは、個人名ではなく、思いやる善から、信仰の真理にいる者のことで、兄弟と同じように信仰の真理を持つ者です。仁愛は、兄弟のように結びつけ、信仰は、仲間とします。しかし、信仰も仁愛もなければ、離れてゆきます。(AR32)
教会が悪と偽りによって蝕まれると、主がお越しになった時、切り離され、その時の状態は苦難でしかありません(AR33)。
教会が完全に終わりを迎えつつあるなら、一歩離れて神と教会のことを考える状況が、パトモス島にいる状態です。
ここでは、神的流入によって霊的な状態が訪れます。(AR36)

「ある主の日のこと、わたしは“霊”に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。」(1:10)
過去の預言者も同じ状態で、彼らは体ではなく、霊の中にいる状態で、天界で見られる現象です。み言葉が来ると、身体の中でエホバの話を聞くことができます。霊の目が開き、身体の目が閉じます。この時のヨハネが同じ状態で、アブラハムが三人の天使とあった時も同じでした。そのほかエリシャも(列王記Ⅱ 6:17)同じ状態です。
み言葉は霊の幻にいて啓示されるものではなく、主が預言者に聞こえる声で聴きとらせます。(AR36)
そのため、私達の周りの「霊能者」で、神のお告げを聞いたという、漠然としたものとは異なります。実際の声で聞こえるからです。

それは「後ろの方でラッパのように響く大声を聞く」ようなものです。明らかな知覚があります。よく霊の声を聴くという人がいますが、それらとは明らかに違う、間違いなく主と知覚することのできる大きな声です。
詩編にあっても、「 【主】の声は、力強く、【主】の声は、威厳がある。」 (29:4) とされています。

 「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である」(1:11)
1:8と同じ言葉が繰り返されます。日本語聖書や一部の英訳聖書では省略されていますが、欽定訳やギリシャ語聖書では除かれていません。このみ言葉の内意を確認し、よく理解した上で、どんな方がお話になっているのか確認すべきです。曖昧のままでは、神の声を聞き逃します。

「お一人で、最初が最後に至るまで唯一の実体で、そこからすべてのものが起こった、
そのためお一人で、唯一の愛であり、一つの、そして唯一の知恵、一人、そして唯一の生命そのものであり、お一人で唯一の創造主、救い主、ご自身から啓蒙し、
そのため教会と天界のすべてのすべてであり、唯一無限で永遠、そしてエホバであり主である方」(AR38)
この意味が込められています。
天地唯一の神が、ご自身から、啓蒙されています。

「あなたの見ることを巻き物にしるして、アジアにある七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」
日本語訳では「アジアにある」が除かれています。アジアは「み言葉から真理の光にいるキリスト教会」の意味を持ちます。アジアにある個別の教会ではありません。
七つの教会の霊的意味は、主とその教会を受け入れる、受容のあらゆる状態を意味します(AR41)。み言葉、神の言葉は、アジアを強調していのではなく、「み言葉から真理の光にいる」を強調しています。そのため、避けられる単なる重複ではありません。

 「そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。」(1:12)
 ここにはアルカナがあります。
「人が主を天地の神として認めないうち、みことばの内に神的真理を見ることができません。神は人と本質で一つであり、内に三位があり、神は主である。
これを三人の人格として受け入れ、父を第一とし、聖霊として、稀に、主(イエス)とみます。もし彼らが主をみれば、普通の人と同じ人間としか見ません。」(AR42)
もし人に生命の善があるなら、主に向かえば、み言葉の内に真理を見ることができます。
これを逆にいえば、み言葉に真理をみることができないなら、その人の内に生命の善がないことになります。
その人は、まだ主を天地唯一の神として見ていません。これを機に、自分を振り返ってみることができます。振り返くとは、自分を振り返り、主をどのように受け入れているかを自己点検することでもあります。

振り返ると七つの燭台が見えます。七つの燭台は、人の主の受け入れ方です。七つの燭台は、一つ一つが、並んでいるわけではなく、それぞれに間があり、主を円形に取り囲んでいます。主はお一人ですが、私達の受け入れ方によって異なることを教えます。

「それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。」(1:13)
燭台の真ん中とは、教会の最奥で、その源から発している教会と、そこから結ばれているすべてを表します。なぜなら、教会とそこにつながるものすべては、主から、み言葉を通してくるからです。(AR44)

「長い衣」の衣は、真理を表し、神的真理から発する神性です。(AR45)
「金の帯は、主の胸と乳首がそこにあることで、主の神的愛を表します。そのため囲んでいる金の帯は、発して結ばれている神性を意味し、神的愛の神的善を意味します。金は善を意味します。(AR46)

よくある西洋人の優しい顔立ちの主の画像で、主をイメージする方もいらっしゃいますが、これで天地唯一の神がイメージできるかどうか、疑問です。αΩ、最初と最後の、神的人間が、ただの優しい青年の像でイメージできるかどうかです。「人」や「愛」をイメージすることは大切ですが、ただの白人の美男子で、天地唯一の神をイメージすることは簡単ではありません。愛も自分だけに優しい都合のいい愛、となってしまいます。

「その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く」(1:14)は神的知恵を伴う神的愛を表し、頭は愛と知恵の最初を、髪の毛は愛と知恵の最後を意味します。サムソンで代表されるナジル人の力の源が髪にあるとされたのも、預言者エリシャを禿げ頭と呼んで雌ぐまに引き裂かれたのも、髪の毛の意味が表象されたからです。

「その目は、燃える炎のようであった。」神的愛を伴う神的知恵を表します。愛の炎から出た知恵です。目は知性を表すからです。
「その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようで」(1:15)自然的な神的善を表します。(AR49)

自然的で外面を清めるには、霊的あるいは内的自我が悪と理解したものを、自分から断つた時に清められます。(AR49-5)
内心の悪を徹底的に清めてゆかなければ、炉で精選され光り輝く真鍮とはなりません。私達人間で、光り輝くほど徹底的に悪を断つことができれば、天界の天使に近づくことができます。

「それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。」( 1:17)
主の存在によって、私達自身の生命は失われたようになります。・・私達は主の神的な愛を受け入れることができないからです。
主は、天地の唯一の神でありながら、ご自身の生命など全く顧みず、この世に人間として生まれました。この世の人間に殺されても、憐み、人類全体を救おうとされています。このような神的な愛は、私達人間には、実行はもちろん、理解も想像もできません。もし理解しようとするなら、自分を滅ぼすしかありません。

しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。」(1:17)
主が右手を置くことで、交流が意味され、主から生命が吹き込まれ、私達は生き返ります。主の私達への存在は全く別のものが加わる「付加」です。この付加は接することで行われる結びつきで、主の戒めを守って、私達が主を愛すれば愛するほどより近く、完全になります。

これに加え主は私達を救う力をお持ちです。死とハデスとのかぎをお持ちであるからです。そしてこの鍵は、私達を地獄から救い出すために開ける鍵であり、地獄に引き返そうとするとき、閉める鍵です。地獄から救い出されることで、私達は永遠の生命を受け取り、再生します。
 
「わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。」
アーメン。



詩編
 29:3 【主】の声は、水の上にあり、栄光の神は、雷鳴を響かせる。【主】は、大水の上にいます。
29:4 【主】の声は、力強く、【主】の声は、威厳がある。
29:5 【主】の声は、杉の木を引き裂く。まことに、【主】はレバノンの杉の木を打ち砕く。
29:6 主は、それらを、子牛のように、はねさせる。レバノンとシルヨンを若い野牛のように。
29:7 【主】の声は、火の炎を、ひらめかせる。
29:8 【主】の声は、荒野をゆすぶり、【主】は、カデシュの荒野を、ゆすぶられる。
29:9 【主】の声は、雌鹿に産みの苦しみをさせ、大森林を裸にする。その宮で、すべてのものが、「栄光」と言う。


 黙示録
 1:7 見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。
1:8 神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」
1:9 私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。
1:10 私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。
1:11 その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」
1:12 そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。
1:13 それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。
1:14 その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。
1:15 その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。
1:16 また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。
1:17 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、
1:18 生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。
1:19 そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。
1:20 わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。

黙示録啓示
62.「死とハデスとのかぎを持っている。」 これは、象徴的に主お一人だけが救えることを意味します。
鍵は開閉の力を意味します。ここでは、人を救うために地獄を開ける力と、連れ出されて戻されないため閉める力です。なぜなら人はあらゆる種類の悪に生まれて、悪は地獄であるため、地獄の状態にいます。そこから主によって連れ出すため、開く力をお持ちです。

地獄と死の鍵を持つことは、地獄に投げ入れるためではありません。救うための力で、それはすぐ後に続く「見よ、いつまでも生きている」という宣言の後にあり、主お一人が永遠の生命であることを意味しているからです(60)。さらに、主は決して誰も地獄に投げ込みません、自ら投げ込むのは、その人自身です。

鍵が開ける力を意味するのは、黙示録3:7; 9:1; 20:1; iイザヤ書22:21-22; マタイ16:19; ルカ 11:52を参照。

主の力は、天界だけではなく、地獄にも及びます。なぜなら地獄はその秩序のうちにあり、天界に反する力と関係しているからです。
従って、在るものを支配する力を持つ者は、他方も治める力を持ちます。そうでなければ、誰一人救われることがありません。救われるとは、地獄から連れ出されることです。