LK21 神殿での教えⅡ | 新教会牧師書斎の窓

新教会牧師書斎の窓

新教会牧師が、善い生活とは何かと問い、実行しながら、綴るブログです。

「そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。(21:2)

前章に引き続き、エルサレム入城以降の宮殿での教えが続きます。主を敵対視する宗教勢力との争いは主イエスの勝利に終わり、相手は、ぐうの音も出ないほど、やり込められました。さらに主は「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」(20:47)者に厳しい忠告をなされています。

21章は、宮殿で貧しいやもめが献金を目撃する場面から始まります。やもめが箱に入れたのは彼女の生活費全部でした。
主は献金箱に入れたことを見て、「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。」とおっしゃいます。
これは献金の是非と、その額の大小について言われているのではありません。仁愛の動機の深さについて言われています。(TCR459-9参照) 
献金はわずかでも、生活費すべてを注ぎ込んだことを褒めらています。生活費をすべて献金するのが正しいとは、言われていません。そんな指導をするのは、やもめの家を食い物にする宗教指導者です。もしそんな指導をするなら、「人一倍厳しい裁きを受けることにな」ります。(20:47)

「やもめ」は善のない真理の教会を意味し、それでも善を求める者を意味します。(AC4844)
神殿に来て全財産を献金する「やもめ」は、善を持っていません。そのため貧乏で、銅貨二つしか献金できません
しかし、自分の生活を犠牲にしてまで、役立とうとします。
主は「やもめ」が善がないにもかかわらず、善を求めた姿勢を、ほめていらっしゃいます。貧しいやもめは、学ぶだけで、何も善を行わない人より、はるかに素晴らしい行いです。
しかし、善がない状態で、人は真理を行うことはできるのでしょうか?仁愛のない信仰は存在できるのでしょうか?

エルサレム入城以来、主は神殿で教えを説かれています。神殿は、「見事な石と奉納物」で飾られています。これら奉納物と石は、過去に有志が奉納し、献金したものからできています。過去の善からできています。
しかし、「一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日」がくると予言されます。歴史的にはこの神殿は、のちにユダヤ戦争(AD70)で、「嘆きの壁」を残して、破壊されてしまいます。
しかし、エルサレム包囲戦は歴史上、何度も行われています。
つまり、この予言は、歴史上の出来事ではなく、霊的な意味での予言であり、主はその前兆について語られます。
そして、城壁の石は、神的真理を意味します。愛がないため神的真理が全く失われてしまう日のことを予言されています。

「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。」(21:8)
現代でも、主の名を語られば、ついて行ってしまう人は少なくはありません。危機感をあおり、様々な自称「預言者」が現れています。この新教会の集まりにも、危機感をあおり、あるいは「私は特別な使命を帯びている」と様々な人がやってきます。

しかし、善のない真理は、偽りです。善は真理の生命であり、それがなければ、真理の名を借りた偽りでしかありません。み言葉から引用しても、何等かの善がなければ、それは偽りです。(AE781:12)

主はおっしゃいます。「惑わされないように気をつけなさい。」(21:8)
自分自身の意見や、利己的意図、悪意を支え、正当化するため、真理を切り取って使います。様々な新興宗教は、聖書を切りとって、自分の都合のいいように、真理を歪曲します。そのため、善を失い、築き上げた真理は、すべて偽りとなってしまいます。神殿を構成する石、神的真理が全く残らない日がやってきます。「やもめを食い物にする」ものとなってしまいます。

神殿は、主の神的人間を意味します。(AE220) 壁のような冷たい真理ではなく、人間のような血の通った温かい真理でなければ善の形とはいえません。真理に知恵が加わり、思いやりのこもったものでなければなりません。相手を真理で一方的に批判するだけなら、自分はその誤りに気づきません。
惑わされて偽りが進んでゆけば、教会にはさらに混乱がやってきます。導いてくれる神的真理がなくなっているからです。

「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。」(21:10-11)
「代の終わり、教会の最期が取り上げられ、民は民には悪は善に対立し、国は国には偽りが真理に対立することは、悪と偽りの間で意見の相違があったことを意味します。飢饉や疫病によって、真理が欠陥を持ち、消耗してしまったことを、地震によって教会の歪曲」が意味されます。(AE175-13)
人を主に導くはずの教会の真理は、偽りと混じりあい、試練がやってきます。

試練は「あなたがたにとって証しをする機会となる。」(21:13)
「証」は主を告白することです。(AE392) 現今のキリスト教会での証の慣例は、信者がイエス・キリストの教えにしたがって生活し、そのことばと行いを通して、まわりの人々にキリストの愛を伝えることを表します。(カトリック中央協議会)
しかしみ言葉の霊的意義は、「証」は主を意味し、心から主を告白することで、個別には主の人間の内に主の神性を認めることです(AE392-5)。新教会の信仰告白も、この意義に従って行われます。

そのため、弁明の準備をする必要はありません。心から主の神性を認めているかどうか、真理に従って生きているかどうかを告白することであるからです。
「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。」(21:16,17)

み言葉では「主イエス・キリストのみ名」とは、主を認めてその戒めによって生きることを意味します。
さらに主イエスは、贖い主であり、救い主と認め、最終的に主に従い、主を信じることになります。(TCR682)
自分は新教会信者であると宣言しながら、戒めに従って生きない方が多いのは驚きです。
そういう人は「戒めに従うのは難しい」と言い訳します。
しかしそれは言い訳にしかすぎません。「貧しいやもめ」のように、自分のベストを尽くして行っているかを自分に問います。

「しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(21:18,19)
髪の毛は、従ってきた主の神的真理です。文字とされた真理を抱き、隣人への愛を忘れず、死後の生命を勝ち取ります。

「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。」(21:20,21)
教会にいる者が主以外を見あげ、主を愛さなくなったり、隣人への思いやりがなくなれば、・・・主への愛と、隣人への思いやりに戻りなさい、(AC3652)と内意は語ります。
神と語る時は、愛が必要です。石の柱に、ぶどう酒と油を注がねばりません。(創35:14)

教会や愛読者の会等、どんな名をとろうと、主への愛や隣人への思いやりを失えば、その集まりの終わりの時です。
その時は、「身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸」(21:23)と言われます。天界的愛の善や、無垢の状態を身ごもって(AC3755)いても、生まれ、育つことがないからです。

「人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂う」(21:24,25)
「代の終わり、教会の最期が取り上げられ、その時は、もは思いやりがないので信仰がなく、あるいは善がないので真理がありません。これは相応によって描かれています。剣の刃によって倒れるとは、偽りによって滅ぼされ、あらゆる国に捕虜となって連れて行かれるとは、あらゆる悪によって囚われることを;踏み荒らされるエルサレムは教会のことを、太陽は主への愛を、月は主に対する信仰を、星は善と真理の認識を、その内に現れる徴は、そのために滅び、そのため荒れる海と波は、偽りと議論が意味されます。」(AE175-12)
相手を思いやらない信仰は、信仰ではありません。真理でもありません。それは単なる剣、偽りです。

「人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。」(21:26)
真理に全く善がなくなった時、この時の天界の状態がこれらの言葉で描かれています。・・これは天界にいる者が、教会の善に関するすべてが、そしてそのため真理のすべてが滅ぶことへの恐怖と、主への助けの期待が描かれています。「天体が揺り動かされる」によって神的真理の力が弱まったことが意味されます。(AE741-26)
しかし、さらなる力と栄光を持って主はお越しになります。神的真理は決して揺るぐことがなく、揺るいでいるのは、私達が受け入れようとしないためです。主からの戒めを守ろうとする力が弱くなったためです。
「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」(21:27)

「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(21:32,33)
主の神的真理の力が滅びることはありません。主は全人類を救おうという御心であふれていらっしゃるからです。

「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。(21:34)
しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」(21:34,36)

神的真理は神的人間として、最後の審判の時に私達の前にやってきます。その時、戒めを守り続けた生活を、送ったことを主の前で宣言することができます。心に隣人愛と主への愛を置きながら、善を行います。祈りとは、仁愛の生活にいることであるからです。(AE325:12)

心が明るいうちは主の神的人間からの教えを聞き、聞けない時は、主への愛を思い出します。その山に主はいらっしゃるからです。
そして朝早くなれば、主の神的人間である神殿に向かい、教えを確かめます。

「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた。民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た。」(21:37,38)
アーメン。





創世記
35:14 ヤコブは、神が自分と語られた場所に記念碑を立てた。それは石の柱で、彼はその上にぶどう酒を注ぎかけ、また油を注いだ。

ルカ福音書
21:1 イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。
21:2 そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、
21:3 言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめ     は、だれよりもたくさん入れた。
21:4 あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」
21:5 ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。
21:6 「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
21:7 そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」
21:8 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。
21:9 戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」
21:10 そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。
21:11 そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。
21:12 しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。
21:13 それはあなたがたにとって証しをする機会となる。
21:14 だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。
21:15 どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。
21:16 あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。
21:17 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。
21:18 しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。
21:19 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」
21:20 「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。
21:21 そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。
21:22 書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである。
21:23 それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである。
21:24 人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。」
21:25 「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。
21:26 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。
21:27 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
21:28 このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」
21:29 それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。
21:30 葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。
21:31 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。
21:32 はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。
21:33 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
21:34 「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。
21:35 その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。
21:36 しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」
21:37 それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた。
21:38 民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た。

黙示録解説325[12]
しかし人は生命と祈りが一つであることを知りません。しかしみ言葉で言われるとき、単なる祈りだけが意味され、これらの文脈が除外されます。
さらに、人は思いやりの人生にいる時、人は常に祈っています。口には出しませんが心で行っています。なぜならその愛は絶えず思考の中にあり、本人は気づきません。(新しいエルサレムの教え55,57)
そのため、祈りの霊的意味は、愛からの礼拝を意味します。しかしこれらのことに安んじない人はそれらに反することを考え、
信仰深さを祈りに置き、生活に置きません;また本当の信仰深さが何にあるかを知りません。