徳川家康の謎・事件 | NEVER ENDING DREAMS

NEVER ENDING DREAMS

脳梗塞を起こした人の記録です。

本文を始める前に、2019-08-10に掲載した白虎隊 考に[私は、江戸時代から明治の偉人達に誇りを感じている。また、この時代の最大の功労者は、フランスが提案した北海道と新式武器の交換を断り、恭順した将軍徳川慶喜だと思っている。]と記載した。歴史という事実は、教科書や報道だけでは見えてこない。誤ったものや扇動目的のものも多く、自分で調べなければならない。その積み重ねの上で正確な判断ができるものだと信じている。誰もが若くして散った白虎隊及び家族の死を悼み、官軍が取った行為には義憤さえ感じる。彼らの敬愛の精神と武士道を貫いた行動に日本人としての誇りを感じる。私もその一人だが、彼らをカワイそうと思うならば、恨みや後悔することではなく、2度とこういう事態を起こさないためには、今後何をすべきか考えてみたい。その為に今回取り上げたキーワードが、[孝明天皇毒殺説]と[松平容保ボンクラ説]とした。リーダーとしての資質を鍛えようとする者にとって、山岡荘八の小説『徳川家康』を読むことが必要不可欠の通過点だった。改めて、徳川幕府が平和な長期政権を営んできたが理解できる。2022/8/8に掲載の幕末までの外交史で、世界はより強い武器を持つものが、残酷に人を殺し財産を者がいる。山賊のような人が国家を作り、他の地域に行っては犯罪行為を働いて居座る。そのままでは、日本の平和を維持できないと知った。

酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人を徳川四天王と呼称した。
(家臣団(1)三河時代の家臣団)
酒井忠次、石川数正、大久保忠世、本多重次、鳥居元忠、本多広孝、本多忠次、酒井忠尚、酒井正親、高力清長、中根正照、天野景能(康景)、大久保忠勝、石川家成、植村家存、植村正勝、青山忠成、榊原忠政、杉浦勝吉、夏目広次、水野信元、久松長家、松平昌久、本多忠真、鳥居忠吉
(家臣団(2)東海三国時代の家臣団)
本多忠勝、榊原康政、井伊直政、平岩親吉、大須賀康高、渡辺守綱、服部正成(半蔵)、安藤直次、柴田康忠、松平家忠、松平清宗、松平真乗、内藤家長、内藤信成、内藤正成、内藤清成、内藤政長、植村泰忠、山田重利、久世広宣、高木広正、成瀬正一、菅沼忠久、奥平定能、奥平信昌
(家臣団(3)五カ国時代の家臣団)
本多正信、大久保忠隣、真田信之、木曽義昌、保科正直、城昌成、成瀬正成、依田信蕃、伊奈忠次、彦坂元正、小栗吉忠、菅沼定盈、小笠原信嶺、屋代秀正、諏訪頼水、馬場昌次、小笠原貞慶、下条頼安、知久頼氏、千村良重、駒井政直、青沼忠重、折井次昌、津金胤久、山本忠房、三枝昌吉
(家臣団(4)関東時代の家臣団)
大久保長安、岡部長盛、小笠原秀政、水野勝成、村越直吉、戸田康貞、向井正綱、依田康真
年表
 
 
和暦        西暦                数え年        内容
天文11年    1543年    12月26日          1歳        誕生(三河国岡崎城)父・広忠と母・大子
天文11年(1542年)12月26日、岡崎城主松平広忠の嫡男として岡崎城において生まれる。生母は緒川城主水野忠政の娘・大子(伝通院)。幼名は竹千代(たけちよ)。
天文16年    1547年8月2日        6歳         竹千代
今川氏への人質として駿府へ送られることとなる。しかし、駿府への護送の途中に立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国の織田信秀へ送られた。だが父・広忠は今川氏への従属を貫いたため、竹千代はそのまま人質として2年間尾張国熱田の加藤順盛の屋敷に留め置かれた。2年後に広忠が死去する。今川義元は織田信秀の庶長子・織田信広との人質交換によって竹千代を取り戻す。しかし竹千代は駿府に移され、岡崎城は今川氏から派遣された城代(朝比奈泰能や山田景隆など)により支配された。墓参りのためと称して岡崎城に帰参した際には、本丸には今川氏の城代が置かれていたため入れず、二の丸に入った。
□2 8歳で人質になり、今川家への忠誠をつくす一員となれるよう大切に育てられた。そこでは、武芸を極めずに、勉学に専念して今川家の一員となれるよう努力していた。少年時代の愛読書は、歴史書-「史記」、儒教の経典-「論語」、兵法書-「六韜(りくとう) 」「三略」、政治論書-「貞観政要」だった。日本の歴史書で有名な鎌倉時代の「東鏡」が、家康の愛読書だった。
永禄3年    1560年    5月19日        19歳    桶狭間の戦い
永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで今川氏から先鋒を任されて、大高城の鵜殿長照が城中の兵糧が足りないことを義元に訴えたため、義元から兵糧の補給を命じられた。しかし織田軍は大高城を包囲しており、兵糧を運び込むには包囲を突破する必要があった。そこで5月18日、鷲津砦と丸根砦の間を突破して、小荷駄を城中に送り込み、全軍無事に引上げた。5月19日、丸根の砦を攻め落とし、朝比奈泰朝は鷲津の砦を攻め落とした。
5月19日昼頃、今川義元は織田信長に討たれた。織田方の武将の水野信元は、甥の元康のもとへ、浅井道忠を使者として遣わした。同日夕方、道忠は、元康が守っていた大高城に到着し、義元戦死の報を伝えた。織田勢が来襲する前に退却するようとの勧めに対し、元康はいったん物見を出して桶狭間敗戦を確認した。同日夜半に退城する。
□3 追い詰められ19歳で自害するはずだった桶狭間の戦い
食料を届ける補給係として桶狭間に近い大高城にいた。菩提寺の大樹寺に入って自害を決意する。登誉天室上人(とうよてんしつしょうにん)から厭離穢土(おんりえど)欣求浄土(ごんぐじょうど)と、諭され死ぬことを生きることを決めた。大樹寺は、三代将軍徳川家光が大改修をしている。三門の先に総門という小さな門があって、家康が生まれた岡崎城が見える。岡崎の人は、400年の間眺望を守ってきた。
① 岡崎城内には今川の残兵がいたため、これを避けて翌20日、岡崎城から3km程離れた菩提寺の大樹寺に入った。織田軍の追手が迫っているので、先祖の墓の前で自害しようとしていた。そこで13代住職の登誉天室上人(とうよてんしつしょうにん)から厭離穢土(おんりえど)欣求浄土(ごんぐじょうど)、汚れきった世だからこそ生き抜き戦うべきではないのか、と諭され、もう一度生きていこうと決意した。ほどなくして今川軍は岡崎城を退去した為、23日、元康は「捨城ならば拾はん」と言って岡崎城に入城した。
☆【厭離】えんりorおんり 仏教で、けがれたこの世をきらって離れること。【穢土】えど けがれた国土。 迷いから抜けられない 衆生 しゅじょう の住むこの世。 現世。 娑婆  。【欣求】ごんぐ よろこんで道を願い求めること。進んで求道(ぐどう)すること。【浄土】じょう‐ど 一切の煩悩 (ぼんのう) やけがれを離れた、清浄な国土。 仏の住む世界。家康の馬印に「厭離穢土欣求浄土」の旗が[用いられたとされる。
永禄5年    1562年    1月15日        21歳    清洲城を訪問し織田信長と同盟を結ぶ。上ノ郷城を②攻め人質を取って今川氏真と自分の家族(妻・築山殿、息子・信康)と交換する取引をした。上ノ郷城は、天然の要害だったので、忍者を使う火種(打竹・うちたけ) で奪還作戦を実行した。家康と信長が会って会談し、同盟の確認をして関係を固めている。
永禄6年(1563年)には、義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めた。竹千代14歳⇒元信17歳⇒元康22歳⇒家康、家康は22歳で戦国大名として独立した。
□4大苦戦した三河一向一揆
年貢米が不足し、家臣に給料も払えない。そこで、今まで慣例として認めていた年貢を強制的に徴収しようとして、一向宗の僧侶から反発される。一向宗の信者による反乱だった。寺には堀がある城の防御で、組織だった軍隊のようだった。一向とは、ひたすら念仏を唱えるという意味で、唱えながら突進してきた。さらに計算外だったことは、自分の部下の中にも多くの信者がいて、部下にまで裏切られた。
長く戦って和議を結ぶが、条件として一向宗は、寺を元通りにしてくれということだった。家康側は、了解するが、もっと前の野原に戻された。しかし、その後に死人は出ていない。家臣も許して側近に戻した。
永禄7年(1564年)、三河一向一揆が勃発するも、苦心の末にこれを鎮圧。こうして岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対今川氏の戦略を推し進めた。東三河の戸田氏や西郷氏といった土豪を抱き込みながら、軍勢を東へ進めて鵜殿氏のような敵対勢力を排除していった。   
永禄9年     1566年                25歳
家康は朝廷から藤原氏として従五位下三河守に叙任され、その直前あるは同時に苗字を「徳川」に改めている。この改姓を朝廷に願い出る際にはいくらかの工夫を要した。松平家は少なくとも清康の時代から新田氏支流世良田氏系統の清和源氏であると自称していた。家康は三河国出身で京誓願寺住持だった泰翁を介して近衛前久に相談した。前久の対処により、吉田兼右が万里小路家で先例に当たる系譜文書「徳川(根元は得川)」を発見し写しが譲渡され申請に使用した。名乗る特例ともいえる措置を得て、家康は従五位下三河守に叙任された。
⑮「徳川」への改姓
家康は三河の国をほぼ平定し、三河を治める大名として認めてくださいと朝廷にお願いしたが、松平という聞いたことがない名前の家柄には任せられないと断られた。そこで名を徳川と改めて、従五位下三河守に叙任された。
永禄9年    1567年    12月29日    25歳    藤原徳川氏に改姓。従五位下に叙爵し、三河守に任官
永禄11年    1568年    1月11日        27歳    左京大夫
元亀元年    1570年    6月28日        29歳    姉川の戦い
元亀元年(1570年)、岡崎から遠江国の曳馬城に移ると、ここを浜松と改名し、浜松城を築いてこれを本城とした。今川氏真も浜松城に迎え庇護する。また信長を助け、金ヶ崎の戦いに参戦したほか、朝倉義景・浅井長政の連合軍との姉川の戦いでは活躍を見せた。
元亀2年    1571年    1月5日        30歳    従五位上
1月11日    侍従
元亀3年    1572年    10月16日        31歳    二俣城の戦い
③1573年    12月22日    三方ヶ原の戦い 二俣城を奪い取られ、三方ヶ原 徳川・織田連合軍は惨敗した。家康は夏目吉信ら、身代わりとなった家臣に助けられて命からがら浜松城に逃げ帰ったという。忍者と家臣には信頼関係があり、家康の為に死ねる人が大勢いた。
□1 家康の二股城は、櫓を組み立てて天竜川の水をくみ上げていた。武田軍は、上流に筏をたくさん作って流し、壊して水不足にさせ、二股城を落とした。浜松城に陣取っていた家康に武田軍は近くまで来て方向転換をした。これを追撃した理由は、1つは浜名湖にある補給ルートにある堀江城の保護だった。2つ目は.不利な戦いにあえて挑んだ実績で有能な武将としての評価を保つためだった。この負け戦から家康を救ったのは、1.家臣の夏目吉信らの身代わりと2.逃げ帰る時に休んでいると、残ったご飯でお粥を振舞われた。小豆餅も振舞われた。この信玄に大敗したことによって、家臣と民衆たちとの結びつきを深めた。
天正2年    1574年    1月5日        33歳    正五位下 
天正3年    1575年    5月            34歳    長篠の戦い 
④5月の長篠の戦いでは主力を持って武田氏と戦い、武田氏は宿老層の主要家臣を数多く失う大敗を喫し、駿河領国の動揺と外交方針の転換を余儀なくさせた。一方家康は戦勝に乗じて光明・犬居・二俣といった城を奪取攻略し、殊に諏訪原城を奪取したことで高天神城の大井川沿いの補給路を封じ、武田氏への優位を築いた。織田の3,000丁の鉄砲で勝ったのは知られているが、その鉄砲玉を作ったのは家康だ。
天正5年    1578年    12月10日        36歳    従四位下
12月29日    右近衛権少将
天正7年    1579年        38歳    
⑤徳姫は、築山殿が徳姫に関する讒言を信康にしたこと、築山殿と唐人医師・減敬との密通があったこと、武田家との内通があったことなど、12か条からなる訴状を信長に送り、これにより信長が家康に信康の処刑を命じたとされる。家康の上意により妻の処分が伝えられ、築山殿は8月29日に遠江国敷知郡の佐鳴湖に近い小藪村(浜松市中区富塚)で徳川家の将来を危惧した岡本時仲と野中重政によって自害をせまられ、自害を拒んだ事から独断によって首をはねられ殺害された。信康の処刑の介錯役が服部半蔵で自分ではできずに、他の人に頼んだ。供養するため、東京の四谷にある西念寺を建てた。
[?]家康は、築山殿はそうでもないが、長男の信康に対しては父親としては残念だったと思える。
天正8年    1580年    1月5日        39歳    従四位上
天正10年    1582年    6月2日        41歳    本能寺の変 神君伊賀越え
⑥堺を遊覧中に京で本能寺の変が起こった。このときの家康の供は小姓衆など少人数であったため極めて明智軍13,000に対し、味方は30人しかいない危険な状態だ。一時は狼狽して信長の後を追おうとするほどであった。しかし本多忠勝に説得されて翻意した。京都を通過する主要なルートでは、明智軍が待ち構えている。服部半蔵の進言を受け、伊賀国の険しい山道を越えて、加太越を経て伊勢国から海路で三河国に辛うじて戻った(神君伊賀越え)。当時の山道には、落ち武者狩りがいる。駆け付けたのは、伊賀者や甲賀者などの忍者たち、200人が集まった。30人の中に忍者を束ねる服部半蔵がいた。帰国後、家康は直ちに兵を率いて上洛しようとしたが、鳴海で秀吉が光秀を討った報を受けて引き返した。
[?]家康は、信長の事を嫌っていた。考えの似ている光秀から聞いていても黙認したと思われる。事情を知らない光秀の家臣の手紙の中で、用済みになった家康を、殺害するため挙兵したと思われていた。
□5 京都を通過する主要なルートでは、明智軍が待ち構えている。服部半蔵の進言を受け、伊賀国の険しい山道を越えて、伊勢国から海路で三河国に辛うじて戻った(神君伊賀越え)。竹やぶで身を潜め案内人を待った。信長は忍者を攻撃したが、家康はその忍者を匿っていた。家康は、忍者や商人を加えた家臣が多数いる。茶屋四郎次郎は、商売をして蓄えていた金で、逃走ルートの落ち武者狩りの人物たちに金を配り、襲わないようさせていた。また、本能寺の変 を知らせたのも彼だった。道半ばの小川城で休息をとり100kmの踏破出来る忍者の道を、案内されたと思われる。   
天正11年    1583年    10月5日        42歳    正四位下
10月7日    左近衛権中将(遡及)
天正12年    1584年    2月27日        43歳    従三位参議
3-4月    小牧・長久手の戦い  
□6 徳川・織田連行軍16,000人と秀吉軍は10万人だった。これに対し、家康は小牧山城を大改造し、巨大な堀と土塁て追加し秘密の出入り口を作って、味方の兵を敵から見えなくした。こうして得た奇襲作戦の勝利を大々的鼓舞し、手紙を書いて家臣の忠誠心を書きたてた。不利な多体の時、敵から攻撃されることではなく、味方の裏切りで敗れる事の方が多く怖かった。  
天正14年     1586年    10月4日        45歳    権中納言
10月27日    大坂城にて豊臣秀吉に臣従 
11月5日    正三位
天正15年    1587年    8月8日        46歳    従二位権大納言。羽柴氏を下賜される
1588年    12月28日    左近衛大将・左馬寮御監両官職兼任
天正16年    1588年    1月13日までに    47歳    左近衛大将・左馬寮御監両官職兼帯辞す。
天正18年    1590年    8月            49歳    関東移封。八月朔日、江戸城に入る。
天正18年(1590年)7月5日の北条氏降伏後、秀吉の命令で、駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国(上杉領の川中島を除く)の5か国を召し上げられ、北条氏の旧領、武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の一部の関八州に移封された。家康の関東移封の噂は戦前からあり、家康も北条氏との交渉で、自分には北条領への野心はないことを弁明していたが、結局北条氏の旧領国に移されることになった。
秀吉は関東・奥羽の惣無事という目的を達成するために家康に関東の安定と奥羽の抑えを期待したと考えられている。一方、家康は豊臣政権から政治的・軍事的保護を得ている以上、移封を拒絶することは出来なかった。ただし、関東移封に関しては流動的な側面があり、その後も奥羽情勢の悪化に伴って陸奥国への再移封の噂が徳川家中に流れている。
この移封によって三遠駿と甲信(上杉の北信を除く)119万石(徳川家内の「五ヶ国総検地」では実高150万石とも)から関東250万石(家康240万石および結城秀康10万石の合計)への類を見ない大幅な加増を受けたことになるが、徳川氏に縁の深い三河国を失い、さらに当時の関東には北条氏の残党などによって不穏な動きがあり、しかも北条氏は四公六民という当時としては極めて低い税率を採用しており、これをむやみに上げるわけにもいかず、石高ほどには実収入を見込めない状況であった。こういった事情から、この移封は秀吉の家康に対する優遇策か冷遇策かという議論が古くからある。阿部能久は、鎌倉幕府の成立以来西国政権が東国を一元支配した例は無く、古河公方の断絶とともに機能停止していた室町幕府の鎌倉府と同様の役割を東国に通じた家康によって担わせようとしたと考察している[89]。この命令に従って関東に移り、北条氏が本城とした相模小田原城ではなく、武蔵江戸城を居城とした。なお、小田原合戦中に秀吉が自らの「御座所」を江戸に設ける構想を示しており(「富岡文書」)、江戸城を家康の本拠地としたのも秀吉の積極的な意向が関与していた。
⑦なぜ江戸は、100万人都市になったのか。神田上水の上水システムを作り、綺麗な飲料水を確保し、人々が安心して住めるようにした。
□7 家康が江戸城を作る際、水路を重視した理由は城の堀を水路として船を通らせ物資を城下へ行き渡らせた。堀を作る際の土も無駄にしない。日比谷や有楽町にかけての入江を埋め立てて干拓に利用した。  
天正20年    1592年    9月16日        51歳    豊臣秀吉の執奏により清華家の家格勅許。
慶長元年    1596年    5月8日        55歳    正二位内大臣
慶長5年    1600年    9月15日        59歳    関ヶ原の戦い 家康の馬印に用いられたとされる「厭離穢土欣求浄土」の旗]が跡地に掲げてある。
慶長5年(1600年)3月、越後国の堀秀治から会津の上杉景勝の重臣・直江兼続に越後にあった年貢の下半期分まで持ち出された訴えを、出羽国の最上義光らからは会津の軍備を増強する不穏な動きがあるという知らせを受けた。さらに上杉氏の家臣で津川城城代を務め家康とも懇意にあった避戦派の藤田信吉、栗田国時の二人が、会津から江戸の徳川秀忠の元へ上杉の行動に関する釈明をしようとする途中で、兼続の仕向けた使者達に襲撃され、国時が殺害される事件まで起きた。
これに対して家康は、伊奈昭綱を正使として景勝の元へ問罪使を派遣した。ところが、既に徳川との一戦を固めていた兼続が、『直江状』と呼ばれる挑発的な文書を記した書簡を返書として送ったことから家康は激怒する。景勝に叛意があることは明確であるとして会津征伐を宣言した。これに際して後陽成天皇から出馬慰労として晒布が下賜され、豊臣秀頼からは黄金2万両・兵糧米2万石を下賜された。これにより、朝廷と豊臣氏から家康の上杉氏征伐は「豊臣氏の忠臣である家康が謀反人の景勝を討つ」という大義名分を得た形になった。
□8 家康を圧勝させた関ヶ原の戦いは、1か月前から用意をしていた。
○有力な武将の心を掴んだ  
戦いの1か月前から書いていた家康の手紙(徳川家康書状)7行の短い書状
宛先:元々は秀吉の家臣たち 細川忠興・黒田長政・藤堂高寅
内容:自分は江戸にいるけど、必ず追いつく、大丈夫だから
武将の心配していることを簡潔に保障し安心させる文章となっている。一方、石田光成も手紙を出しているが、長文で、味方につくのは義務だと書いてあった。
○7万人の兵士を一気にまとめる
家康が兵士に課した戦場の15の約束。
軍法事(軍令書・会津攻討軍状)
小学生の遠足並みの事まで最低限のルールを確認することが必要、
1.喧嘩口論するな
1.放火、乱暴はするな
1.田畑を荒らすな、のなかに陣地を作るな
1.長い柄の槍は使うな (自前で武器を持ってきているので、味方にあたると危ない)
1.集団移動の時は脇道にそれるな
1.戦が終わるまで勝手に帰るな
1.勝手に馬を盗むな
1.商人からものを奪うな
⑨関ヶ原の戦いは、石田光成が先に仕掛けたと思われているが、天下統一を狙った家康が仕組んだものだった。京都にある養源院は徳川歴代将軍の菩提を弔う寺院だ。寺の天井には伏見城の10日程の戦いで自害した徳川兵士たちの床の血の跡を天井に張り替えている。
家康は上杉と戦う為東北に向かっていた。石田三成軍は40,000で人徳川軍は1,800人の戦力差では、石田三成の攻撃は予測済みだった。徳川軍のその時の大将は鳥居元忠で攻められて自害した血の跡が天井に残っている。
⑩豊臣政権内で石田三成と武将たちが対立していた。徳川軍は豊臣政権の内正規の軍隊として認められ各武将たちが従っていたが、淀殿と秀頼に反対され謀反人とされてしまった。関ヶ原の戦い前の2ヵ月の間に各地の武将に手紙を書いていた。書状には、其々の武将が欲しいものが書かれている。大田原晴清には、大軍が来たら俺が守ってやる。伊達政宗には、領地をあげる。家康は弱小大名だったから相手の気持ちを知っていた。出した手紙の数は、160通になる。下準備を整えて関ヶ原の戦いの戦いに臨み、僅か半日で勝利した。
慶長7年    1602年    1月6日        61歳    如果
慶長8年    1603年    2月12日        62歳    右大臣、征夷大将軍宣下・源氏長者宣下
⑭久能山東照宮には、薬草をすりつぶした薬を入れた海外から取り寄せたビンが保管されている。自ら研究して作った薬で健康に気を使っていた。
10月16日    右大臣辞任
慶長10年    1605年    4月16日        64歳    征夷大将軍辞職・源氏長者は留任
慶長12年(1607年)                66歳
駿府城に移って、東国大名や幕府の制度整備を進める「江戸の将軍」秀忠に対して、「駿府の大御所」として主に朝廷・寺社・西国大名・外交を担当した(大御所政治)。
⑧ 以前住んでいた天守を巨大に立て直した。駿府で政策を決定し、江戸で実行した。
慶長19年    1614年    3月8日        73歳    朝廷よりの太政大臣または准三后の内旨を辞退。
1614年 - 1615年    11月-12月    大坂冬の陣
慶長20年/元和元年    1615年    5月        74歳    大坂夏の陣
⑪京都の金地院には、以心崇伝(いしんすうでん)が祭られている。過去の資料を読み解き、城を勝手に作ってはならない。大名同士勝手に結婚してはならない。といったことを定めた武家諸法度のアイデアを上申した。
大坂夏の陣以降、最後の1年で、1国1城令・禁中公家中法度・寺院法度も制定した。人が気分で処罰するのではなく、法律が行動を制限するので、配下の部下たちも安心して従っていられるようにした。家康は、法律で世を平和にしたかった。
銅でできた駿河版銅活字を作り、本を出版した。世の中に読み聞かせを広めようとした。学問が平和の実現に必要と考えていた。
⑫豊臣家は、まだ力を持っていた。自分が死んでしまったら、また天下を取り返される。自分が生きているうちに豊臣家を滅ぼした。豊臣家の大砲は海外製の鋳造したものだが、徳川方は、国内で鍛造した大砲でこれにより、大阪城の天守閣まで届いた。
7月7日    武家諸法度制定
7月17日    禁中並公家諸法度制定
元和2年    1616年    3月17日        75歳    太政大臣
4月17日    死去
⑬大阪城は豊臣家によって作られた。家康がなくなった後に、2代将軍秀忠によって、徳川家によって城全体を埋めて、規模を2倍にした新しい城を築いた。
元和3年    1617年    3月9日        贈正一位