死刑囚 永山則夫 ~獄中28年間の対話~
ETV特集【死刑囚 永山則夫 ~獄中28年間の対話~】を見た。
40年前、4人をピストルで撃ち殺し、“連続射殺魔”として逮捕された永山則夫。19歳で逮捕され、1997年に死刑を執行されるまでの28年間、永山は獄中で実に多くの対話を繰り返す。
その中で著名人や市井の人々との1万5千通を超える手紙でのやりとり、そして永山が人生で初めて心から信じた女性や、裁判を支えてきた支援者との 面会室での会話や書簡。そうした対話をつぶさに見ていくと、当時の時代や永山を取り巻いていた環境、そして、揺れ動き変わりゆく永山の人間像が見えてく る。
裁判員制度や死刑制度に関心が注がれる現代。現代にも通じるさまざまな問題について考えていく。
選挙特番が流れるさなか、こうした番組に ふと目が行き見入ってしまった。
内容については見た人にしか分からないと思われるのですが、永山則夫は19歳で4人の人々をピストルで次々と撃ち殺した。そして連続射殺魔として逮捕される。
永山則夫の育った家庭環境は劣悪なものであった。
父親が子供の明日の米までも持ち去り賭博に使う始末。その中で母親は子供8人と共に父親から逃げ出す。
が、母親の手に負えなくなった子供4人は途中の駅で棄てられてしまう。
乞食同然になった子供達。その中に居たのが永山則夫である。
やがて、半年程経ち保護された子供達は母親の元に戻される。
しかし、食べるのにやっとの環境であるのは変わり無く 大きくなった永山則夫は都会へ仕事を求めた。
就職先で真面目に働く永山の評価は高かったが、ある日職場で過去に犯した永山が万引きした事を聞かれ それがきっかけで仕事を転々とするようになる。
人間関係が上手く行かなかった永山則夫には定職が無く、今で言う日雇い労働のような事を転々する。
「とにかく疲れていた。怒られずに寝られる場所があればよかった」
永山則夫の言葉であるが、今で言うところのネカフェになるのかもしれない。
つまり、永山則夫の生活は切迫したものであり、余裕など無かったのだろう。
そんなことから、永山則夫は社会への絶望と生きる希望を失う。
無差別に4人の人々をピストルで射殺。
逮捕時は自尊感情や人生に対する希望や他者を思いやる気持ちも持てず、犯行の動機を国家権力に対する挑戦と発言するなど、精神的に荒廃していたといわれる。
面会に訪れた母親にも2度棄てられた事から酷い憎しみの念を持っていた。
永山は父親から育児を放棄され、貧しい中荒れた生活を送り学校教育を受けず、逮捕時は読み書きも困難な状態だった。しかし獄中での独学によって識字能力を獲得し、執筆活動を開始した。1971年に手記「無知の涙」
1979年に東京地方裁判所で死刑判決。
「無知の涙」は6万部を売り上げる。そして、そこから得た印税は永山則夫の意向で被害者の遺族へ送られるが、拒否して受け取らない遺族も。
やがて、永山の書いた「無知の涙」をアメリカで見たある女性との手紙でのやり取りを通じて永山則夫の心境にも変化が起こる。
彼女も実は劣悪な家庭環境から不遇の生活をしていた。
手紙のやり取りはその後も続き、正確な数は忘れたが何百通だったと思う。
彼女は日本を訪れることになる。
そして面会。窓越しに立ち上がった永山は そのままじっと彼女を見つめるだけだったという。それが彼なりの挨拶だったようだ。
やがて永山と彼女は結婚する。もちろん獄中結婚。
番組を見ていて感動した部分だった。犯罪を犯した一人の人間の書いた書物から、その人の内面部分を想像し、そして本当の真実の内面を手紙を通してやり取りする中で生まれる愛があるのだなと。
彼女の存在は実際に大きかったと思う。永山の手紙の中でも幸福という文字が見受けられた。
獄中であるにもかかわらず、唯一永山則夫に安らぎが訪れた時でもあると思う。
また、永山の書いた書物による印税を被害者遺族に届けるのと、焼香を行う事が彼女に託された。
獄中の永山は当然 焼香は出来ない訳だが、そんな気持ちを汲んでくれたのか被害者遺族の中には焼香をさせてくれる人達も居た。
彼女のインタビューでは当時の心境が語られる。
「死の連鎖」 心に響いた言葉である。
これは悲しみの連鎖とも受け取れるのだが、つまり 被害者の遺族にとっては被害者が亡くなった悲しみがある訳だが、彼女にとってもこれから死刑が執行される夫(永山則夫)が亡くなる訳であり、悲しみの連鎖が続く事である。
「無くなってよい命はひとつも無い」 その通りである。
そんな中、2審の東京高等裁判所では、心境の変化(下記参照)家庭環境・生育状況が劣悪であった事、配偶者を得たことを酌量による減刑の理由として、犯行時未成年であったことからその更生を期して1981年に無期懲役に減刑される。
それを見て、永山則夫にとっても彼女にとっても光が見えてきたように感じた。
しかし、実際の彼女(現在)のインタビューではそうでは無かった。
自分の死でもって4人を殺害した罪を償おうと考えている永山則夫にとっては 延命では意味が無いという。
その意思を代弁した形で彼女のインタビューは行われていたが、それまでの永山の考え方はそうであったのだろう。
彼女のインタビューには彼女の意思も含まれているが、ほとんどが永山則夫の代弁者という位置付けが大きいように感じた。それだけ彼女には永山則夫の同志という感情があったのかもしれない。
ただ、2審で無期懲役になるまでのやり取りの中で、もし社会復帰をしたらの問いに対し「テストで1番の子がビリの子を助けるような塾をやりたい」といった趣旨の発言をしている事から
最終的には真摯な反省・謝罪・贖罪の境地に至ったと思われる。
さてここで、無期懲役に減刑された永山則夫。 今後は贖罪を主眼に置いて残りの人生をまっとうしなければいけないのだが、当時の時代背景の問題点、裁判制度の問題点が浮き彫りにされる。
差し戻し審
検察側はこの判決が欧州の死刑制度廃止への潮流に乗った現行制度の変更への道筋と考え最高裁へ上告し、事件は死刑制度への審判の様相を呈した(差 し戻し判決まで死刑制度は現実的に停止した)。最高裁は1983年に東京高裁の判決を破棄して、東京高裁に審理を差し戻し、1987年の東京高裁(第二 次)と1990年の最高裁(第二次)は「永山則夫が極貧の家庭で出生・成育し、両親から育児を放棄され、両親の愛情を受けられず、自尊感情を形成できず、 人生の希望を持てず、学校教育を受けず、識字能力を獲得できていなかったなどの、家庭環境の劣悪性は確かに同情・考慮に値するが、永山則夫の兄弟姉妹たち 7人は犯罪者にならず真面目に生活していることから、生育環境の劣悪性は永山則夫が4人連続殺人を犯した決定的な原因とは認定できない」と判断して、死刑 判決が確定した。
永山則夫は無期懲役が難しくなると一転して1審のような国家権力に対する発言に変わったが関係者の話では1審のような迫力はなかった。また拘置所 で面会に訪れた人に対して社会に出た時の話をしなくなった。弁護士に対して「生きる希望の無かった人に生きる希望を与えておきながら結局殺す。こういうや り方をするんですね」といった趣旨の発言をしたとされている。
1997年8月1日に東京拘置所において死刑を執行。享年48。
親族は遺骨の引取りを拒否し、弁護人が引き取った。遺骨は本人の遺志でオホーツク海に散骨された。
【 永山基準 】
この事件以降殺人事件において死刑判決を宣告する際は、永山判決の傍論である死刑適用基準を判例と同等に参考にしている場合が多く、永山基準と呼 ばれその影響力も大きい。1983年に第1次上告審判決では基準として以下の9項目を提示、そのそれぞれを総合的に考察したとき、刑事責任が極めて重大 で、罪と罰の均衡や犯罪予防の観点からもやむを得ない場合に許されるとした。
1. 犯罪の性質
2. 犯行の動機
3. 犯行態様、特に殺害方法の執拗性、残虐性
4. 結果の重大性、特に殺害された被害者の数
5. 遺族の被害感情
6. 社会的影響
7. 犯人の年齢
8. 前科
9. 犯行後の情状
今回この番組を通して考えさせられる事が多かった。
当時の死刑制度の問題点は明確な規定が無かったことで結果的に議論を呼び、永山則夫の発言のように「生きる希望の無かった人に生きる希望を与えておきながら結局殺す。こういうやり方をするんですね」という結果に終わったことである。
いささか無念であったように思う。しかし罪は罪として償わなければならない。その狭間で心をもてあそばれた永山則夫、そしてその元妻(彼女は刑執 行前に離婚)の感情は理解できる。ちなみに彼女の感情とは同志愛といったものだったのかもしれない。インタビューでの語り口からすれば永山則夫の代弁者的 だったのもうなずける。まぁそれだけでは無いだろうが。。
現在行われている裁判員制度であるが、慎重に慎重を重ねて死刑の重さ 罪の重さを理解すべきである。
ひとつの判決が「悲しみの連鎖」を増やさないためにも。
ただ、間違ってほしくないのは死刑そのものは必要であると感じる。無期懲役が最高刑であるならば刑を軽視しがちではなかろうか。
とても意義のある番組であった。
40年前、4人をピストルで撃ち殺し、“連続射殺魔”として逮捕された永山則夫。19歳で逮捕され、1997年に死刑を執行されるまでの28年間、永山は獄中で実に多くの対話を繰り返す。
その中で著名人や市井の人々との1万5千通を超える手紙でのやりとり、そして永山が人生で初めて心から信じた女性や、裁判を支えてきた支援者との 面会室での会話や書簡。そうした対話をつぶさに見ていくと、当時の時代や永山を取り巻いていた環境、そして、揺れ動き変わりゆく永山の人間像が見えてく る。
裁判員制度や死刑制度に関心が注がれる現代。現代にも通じるさまざまな問題について考えていく。
選挙特番が流れるさなか、こうした番組に ふと目が行き見入ってしまった。
内容については見た人にしか分からないと思われるのですが、永山則夫は19歳で4人の人々をピストルで次々と撃ち殺した。そして連続射殺魔として逮捕される。
永山則夫の育った家庭環境は劣悪なものであった。
父親が子供の明日の米までも持ち去り賭博に使う始末。その中で母親は子供8人と共に父親から逃げ出す。
が、母親の手に負えなくなった子供4人は途中の駅で棄てられてしまう。
乞食同然になった子供達。その中に居たのが永山則夫である。
やがて、半年程経ち保護された子供達は母親の元に戻される。
しかし、食べるのにやっとの環境であるのは変わり無く 大きくなった永山則夫は都会へ仕事を求めた。
就職先で真面目に働く永山の評価は高かったが、ある日職場で過去に犯した永山が万引きした事を聞かれ それがきっかけで仕事を転々とするようになる。
人間関係が上手く行かなかった永山則夫には定職が無く、今で言う日雇い労働のような事を転々する。
「とにかく疲れていた。怒られずに寝られる場所があればよかった」
永山則夫の言葉であるが、今で言うところのネカフェになるのかもしれない。
つまり、永山則夫の生活は切迫したものであり、余裕など無かったのだろう。
そんなことから、永山則夫は社会への絶望と生きる希望を失う。
無差別に4人の人々をピストルで射殺。
逮捕時は自尊感情や人生に対する希望や他者を思いやる気持ちも持てず、犯行の動機を国家権力に対する挑戦と発言するなど、精神的に荒廃していたといわれる。
面会に訪れた母親にも2度棄てられた事から酷い憎しみの念を持っていた。
永山は父親から育児を放棄され、貧しい中荒れた生活を送り学校教育を受けず、逮捕時は読み書きも困難な状態だった。しかし獄中での独学によって識字能力を獲得し、執筆活動を開始した。1971年に手記「無知の涙」
1979年に東京地方裁判所で死刑判決。
「無知の涙」は6万部を売り上げる。そして、そこから得た印税は永山則夫の意向で被害者の遺族へ送られるが、拒否して受け取らない遺族も。
やがて、永山の書いた「無知の涙」をアメリカで見たある女性との手紙でのやり取りを通じて永山則夫の心境にも変化が起こる。
彼女も実は劣悪な家庭環境から不遇の生活をしていた。
手紙のやり取りはその後も続き、正確な数は忘れたが何百通だったと思う。
彼女は日本を訪れることになる。
そして面会。窓越しに立ち上がった永山は そのままじっと彼女を見つめるだけだったという。それが彼なりの挨拶だったようだ。
やがて永山と彼女は結婚する。もちろん獄中結婚。
番組を見ていて感動した部分だった。犯罪を犯した一人の人間の書いた書物から、その人の内面部分を想像し、そして本当の真実の内面を手紙を通してやり取りする中で生まれる愛があるのだなと。
彼女の存在は実際に大きかったと思う。永山の手紙の中でも幸福という文字が見受けられた。
獄中であるにもかかわらず、唯一永山則夫に安らぎが訪れた時でもあると思う。
また、永山の書いた書物による印税を被害者遺族に届けるのと、焼香を行う事が彼女に託された。
獄中の永山は当然 焼香は出来ない訳だが、そんな気持ちを汲んでくれたのか被害者遺族の中には焼香をさせてくれる人達も居た。
彼女のインタビューでは当時の心境が語られる。
「死の連鎖」 心に響いた言葉である。
これは悲しみの連鎖とも受け取れるのだが、つまり 被害者の遺族にとっては被害者が亡くなった悲しみがある訳だが、彼女にとってもこれから死刑が執行される夫(永山則夫)が亡くなる訳であり、悲しみの連鎖が続く事である。
「無くなってよい命はひとつも無い」 その通りである。
そんな中、2審の東京高等裁判所では、心境の変化(下記参照)家庭環境・生育状況が劣悪であった事、配偶者を得たことを酌量による減刑の理由として、犯行時未成年であったことからその更生を期して1981年に無期懲役に減刑される。
それを見て、永山則夫にとっても彼女にとっても光が見えてきたように感じた。
しかし、実際の彼女(現在)のインタビューではそうでは無かった。
自分の死でもって4人を殺害した罪を償おうと考えている永山則夫にとっては 延命では意味が無いという。
その意思を代弁した形で彼女のインタビューは行われていたが、それまでの永山の考え方はそうであったのだろう。
彼女のインタビューには彼女の意思も含まれているが、ほとんどが永山則夫の代弁者という位置付けが大きいように感じた。それだけ彼女には永山則夫の同志という感情があったのかもしれない。
ただ、2審で無期懲役になるまでのやり取りの中で、もし社会復帰をしたらの問いに対し「テストで1番の子がビリの子を助けるような塾をやりたい」といった趣旨の発言をしている事から
最終的には真摯な反省・謝罪・贖罪の境地に至ったと思われる。
さてここで、無期懲役に減刑された永山則夫。 今後は贖罪を主眼に置いて残りの人生をまっとうしなければいけないのだが、当時の時代背景の問題点、裁判制度の問題点が浮き彫りにされる。
差し戻し審
検察側はこの判決が欧州の死刑制度廃止への潮流に乗った現行制度の変更への道筋と考え最高裁へ上告し、事件は死刑制度への審判の様相を呈した(差 し戻し判決まで死刑制度は現実的に停止した)。最高裁は1983年に東京高裁の判決を破棄して、東京高裁に審理を差し戻し、1987年の東京高裁(第二 次)と1990年の最高裁(第二次)は「永山則夫が極貧の家庭で出生・成育し、両親から育児を放棄され、両親の愛情を受けられず、自尊感情を形成できず、 人生の希望を持てず、学校教育を受けず、識字能力を獲得できていなかったなどの、家庭環境の劣悪性は確かに同情・考慮に値するが、永山則夫の兄弟姉妹たち 7人は犯罪者にならず真面目に生活していることから、生育環境の劣悪性は永山則夫が4人連続殺人を犯した決定的な原因とは認定できない」と判断して、死刑 判決が確定した。
永山則夫は無期懲役が難しくなると一転して1審のような国家権力に対する発言に変わったが関係者の話では1審のような迫力はなかった。また拘置所 で面会に訪れた人に対して社会に出た時の話をしなくなった。弁護士に対して「生きる希望の無かった人に生きる希望を与えておきながら結局殺す。こういうや り方をするんですね」といった趣旨の発言をしたとされている。
1997年8月1日に東京拘置所において死刑を執行。享年48。
親族は遺骨の引取りを拒否し、弁護人が引き取った。遺骨は本人の遺志でオホーツク海に散骨された。
【 永山基準 】
この事件以降殺人事件において死刑判決を宣告する際は、永山判決の傍論である死刑適用基準を判例と同等に参考にしている場合が多く、永山基準と呼 ばれその影響力も大きい。1983年に第1次上告審判決では基準として以下の9項目を提示、そのそれぞれを総合的に考察したとき、刑事責任が極めて重大 で、罪と罰の均衡や犯罪予防の観点からもやむを得ない場合に許されるとした。
1. 犯罪の性質
2. 犯行の動機
3. 犯行態様、特に殺害方法の執拗性、残虐性
4. 結果の重大性、特に殺害された被害者の数
5. 遺族の被害感情
6. 社会的影響
7. 犯人の年齢
8. 前科
9. 犯行後の情状
今回この番組を通して考えさせられる事が多かった。
当時の死刑制度の問題点は明確な規定が無かったことで結果的に議論を呼び、永山則夫の発言のように「生きる希望の無かった人に生きる希望を与えておきながら結局殺す。こういうやり方をするんですね」という結果に終わったことである。
いささか無念であったように思う。しかし罪は罪として償わなければならない。その狭間で心をもてあそばれた永山則夫、そしてその元妻(彼女は刑執 行前に離婚)の感情は理解できる。ちなみに彼女の感情とは同志愛といったものだったのかもしれない。インタビューでの語り口からすれば永山則夫の代弁者的 だったのもうなずける。まぁそれだけでは無いだろうが。。
現在行われている裁判員制度であるが、慎重に慎重を重ねて死刑の重さ 罪の重さを理解すべきである。
ひとつの判決が「悲しみの連鎖」を増やさないためにも。
ただ、間違ってほしくないのは死刑そのものは必要であると感じる。無期懲役が最高刑であるならば刑を軽視しがちではなかろうか。
とても意義のある番組であった。