『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その154
第46回 将軍になった女
今回は、実衣(阿波局:宮澤エマ)について
(ドラマでは実衣が義村の罠にかかったように描かれたが・・・)
実朝(柿澤勇人)亡き後、自分の子時元(森優作)を鎌倉殿にせんと画策した実衣。事は露見し、時元は自領で討たれ、実衣は居並ぶ宿老たちから問い詰められ、事を認める。「首を刎ねてしまえ!」と命じる義時(小栗旬)に対して、何とか妹実衣を守ろうとする尼御台政子。今話では、そんな場面が描かれた。妹を守らんとする政子の姿は自然だろうが、実は時元を討つべく軍勢派遣の命を出したのは、政子なのだ。
(自ら尼将軍と名乗った政子だが、尼将軍という言葉は当時の資料からは見つからない)
1219(承久元)年2月15日、未剋(ひつじのこく:午後1時から3時)、政子の寝所にカラスが飛び込んできた。不吉なことだと思っていたら、申剋(さるのこく:午後3時から5時)に駿河国(静岡県)から飛脚(伝令)がやって来て、阿野時元が軍勢を率いて砦を構えていると報告した。時元は、天皇から命令を受け、東国(関東)を支配すると称していた(『鏡』同日条)
(母からの手紙に歓喜する時元ら)
同月19日、尼御台政子の命を受けた義時は、時元を討ち取るため、金窪行親(かなくぼゆきちか)ら御家人を派遣した。同月22日、派遣された御家人たちは、時元の陣地を攻め、時元たちは敗れた。翌23日、酉剋(とりのこく:午後5時~7時)駿河からの飛脚によって時元自害の報がもたらされた。
謀反人時元は、政子の命によって排除されたが、この一件に実衣がどう関わっていたのはか良くわからない。今話のように実衣が息子時元を焚き付けたのか、時元が自ら企んだものだったのか、親王を将軍に迎える準備をしていた幕府にとって、火種になりうる時元を未然に排除したかったのか。色々と憶測を含めて考えられるが・・・。
(結局、姉真子によって救われた実衣)
実衣は、1227(嘉禄三)年11月4日この世を去る。没年は不明。実朝の乳母として歴史の表舞台に登場。梶原景時(中村獅童)追放事件や牧の方事件の火付け役となった。今話のセリフにもあったが、姉政子が頼朝の妻となっていなければ、名もなき伊豆豪族の娘として一生を終えていたはずである。彼女を含め、北条家の人々は皆、歴史に翻弄された人々だったと言えるかもしれない。
そして、次回は“あの“有名な政子の名演説が・・・。残すはあと2回。そして、水曜日にはファンミーティングがある。私はオンラインだが、その抽選に当たり、参加できることになった。こちらも楽しみで仕方がない。