『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その153
第45回 八幡宮の階段
今回は、北条政子は『尼将軍』と呼ばれていなかった!について
(実朝が暗殺され悲嘆に暮れる政子)
9年前に上梓した『鎌倉謎解き散歩』は、すでに鬼籍に入られてしまった恩師奥富敬之先生との共著という形を取らせてていただいた。先生は生前、「いつかは大野君と本を出したいね」とお会いするといつも口癖のようにおっしゃっていたからだ。そこで、先生が書き残された原稿をお借りし、私の拙文と共に掲載させていただいた。この本の中で、奥富先生が『尼将軍』について書かれているので、今回はそれを以下引用させていただきたい。
(メルカリで400円だった。ちなみにAmazonの中古は17円からあります笑)
正確に言うと、政子は晩年になっても”尼将軍”とは呼ばれていなかったらしい。少なくとも、筆者の管見には入っていない。
『吾妻鏡』では、頼朝没後の政子は「尼御台所」「三品(さんぼん)」「禅定(ぜんじょう)三品」「二位家(にいけ)」「禅定二位家」「禅定二品(にほん)」「二品禅尼(ぜんに)」「二品御方(おかた)」などと記されていて、”尼将軍”とは書かれていない。当時の貴族たちも、「故頼朝卿後家二品」「後家尼二品」「二位尼」などと書いて、”尼将軍”とは記していない。
筆者の見た限りにおいて、政子を”尼将軍”と書いた最も古いものは、一五〇〇年前後、奈良興福寺大乗院の院主尋尊大僧正(じんそんだいそうじょう)の『大乗院日記目録』である。それには「故時政之女(むすめ)、頼家実朝公□(闕字:之か)母儀、号尼将軍」とある。下って、江戸時代に入ると、『公益俗説弁(こうえきぞくせつべん)』『北条九代記』『諸家系図纂(しょかけいずさん)』等々に「尼将軍」の語が頻見される。
つまり、政子を「尼将軍」の名で呼ぶようになったのは十五世紀後半以降のことと思われる。
ところで、政子自身が将軍に宣下(せんげ)されたことはもちろんないが、「簾中聴政(れんちゅうちょうせい:※1)」を行ったことは『鏡』にも見え、「実朝夭亡(ようぼう:天寿を全うせずに死ぬこと)以後、天下ノ事口入(くにゅう:口を挟むこと)セラレ」たことも『保暦間記(ほうりゃくかんき:※2)にあるように事実であった。そして、尋尊大僧正がいた15世紀後半頃、室町幕府八代将軍足利義政の妻、日野富子が、種々政務に口出しして応仁の乱を惹起(じゃっき:引き起こすこと)しているのである。
(源氏将軍が三代で途絶えた後、義時と共に幕政を支えることになる尼御台政子)
ここからは筆者の想像になるが、女性の幕政干渉を苦々しく思った尋尊やその周囲の人々が、目前の日野富子ことから連想して、政子を「尼将軍」と呼んだのではないだろうか。
政子の墓と伝えられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)が鎌倉市大町の安養院にある。
(安養院にある政子の墓)
(寿福寺にある政子の墓:すぐ隣には実朝の五輪塔もある)
奥富先生の文章を一部ふりがなや意味を加えて書きましたが、今回は役者名は入れませんでした。ちなみに、次回第46回のタイトルは「将軍になった女」。
※1 簾越しに皇太后や太皇太后などが幼帝に代わって行う政治。皇太后など女性が臣下とface to face で会見することが憚られたので、その着座の前に簾をかけていた。垂簾の政とも言う。
※2 保元の乱(1156)から暦応(りゃくおう)年間(14世紀前半)までの歴史評論。