『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その152
第45回 八幡宮の階段
今回は、承久の乱で鍵を握る男~大江広元(栗原英夫)について
大河ドラマもいよいよ佳境。後鳥羽上皇(尾上松也)が倒幕を目指した承久の乱。実はこの事件で鍵を握る男がいた。その男は、大江広元。京下りの公家が??という感じだが、実は彼の一言で幕府の対応が決まる。
争い事とは無縁な感じがする大江広元。承久の乱に関しては、そのイメージと全く違う動きをした。承久の乱に際し、居並ぶ御家人達に「その(頼朝の)恩既に山岳より高く、溟渤(めいぼつ:大海)より深し。報謝の志これ浅からんか」と御家人たちに訴え、幕府軍を一つにまとめた北条政子の演説は超有名だ。まさにこの名演説なくして、幕府の勝利はなかったと言えるほどだ。(『鏡』1221(承久三)年5月19日条)
(政子の名演説の場面がこんな感じか?)
この名演説のあった日の夕方、北条時房(瀬戸康史)、泰時(坂口健太郎)、大江広元、三浦義村(山本耕史)、安達景盛(新名基浩)ら宿老たちが北条義時(小栗旬)の館に集まり、作戦会議が開かれた。多くの意見が出されたが、ほとんどが足柄・箱根の両険峻を防衛ラインとして、後鳥羽上皇方が攻めてくるのを待つ、という消極的な策であった。
その時、齢70を超えていた広元が、「皆の意見は分からんでもない。しかし、東国武士が防衛することに重きを置き、いたずらに時を費やすのは敗北の一因となる。運を天道に任せて、すぐにでも軍兵を京に向けて発遣すべきだ」と主張した。
武家政権の重鎮と言っても、京下りの下級貴族で、戦の専門家でもない広元の主張に、さすがの義時も驚いたに違いない。側にいた姉政子に意見を聞いた。政子もまた広元同様、「速やかに上洛して戦うべし」だった。知略家でもある広元が、「運を天に任せて」という一か八かの策を本当に考えたのだろうか?
実はそこには裏があると私は思っている。おそらくドラマの中では描かれないであろうことが・・・。
広元には、嫡男親広(ちかひろ)がいた。実朝(柿澤勇人)が暗殺されたことをきっかけに蓮阿(れんあ)と号していたが、伊賀光季(のえ(菊地凛子)の兄)とともに京都守護として上洛していた。承久の乱に際しては、後鳥羽上皇の求めに応じて、上皇方に与し、幕府軍に敗れた後、歴史の表舞台から姿を消す。武家では、親子や兄弟がそれぞれ敵味方に分かれて戦い、合戦がどのような結果になっても、一族が存続するようにすることがよくある。広元と親広もそうだったのだろうか?
(この人からも目が離せない!)
知略家広元のこと、親広との連絡は密にしていたに違いない。情報の正確さを期すためにも、親広が敵の懐深くに入り込んでいる必要がある。もちろん、京にいた親広は、反幕府派の圧力に耐えかねて上皇方に与したとも考えられるが、敵方の作戦や士気に至るまで、可能な限りの情報を精査した結果の広元の強硬論であったと考えるのは乱暴だろうか。
広元が強硬論を主張した二日後、頼朝の姉婿一条能保の嫡男頼氏(よりうじ)が、京を脱して鎌倉にやって来た。頼氏は、京の情勢を携えてきたが、幕府に都合の良いものはなかった。そればかりか、武蔵国からの幕府への加勢も順調とは言えなかった。「いざ鎌倉!」という状況だったはずだが、相手が上皇様となると、さすがの御家人達もビビっていたのかもしれない。
(倒幕を目論む後鳥羽上皇だが・・・)
この時、広元は御所を訪れ、義時に「せっかく鎌倉からの出撃を決めたのに、火を費やしていると再び消極策が盛り返してくる。泰時一人でも出撃させるべきだ」と迫った。これを聞いた政子は、病床にあった三善康信(小林隆)を呼びつけ、意見を聞いた。康信の意見も広元と同じだった。そして、泰時はわずか18騎を引き連れて鎌倉を出立した。承久の乱については、後に書こうと思うが、幕府軍の圧勝だった。
(闘病中の康信は、承久の乱後の8月9日、82歳でこの世を去る)
上皇方の敗戦理由としては、鎌倉幕府と御家人たちとの絆も、上皇が義時追討の院宣を出しさえすれば、簡単に突き崩せるという楽観論だった。緻密な倒幕作戦も立てていなかったのではないだろうか。広元は、親広から得た情報を処理していく中で、こうした上皇方の実態を炙り出していたからこそ、強硬論を主張し続けることができたと考えるのは無理な推論でないように思う。
義村の弟三浦胤義(岸田タツヤ)は、上皇方に与し、兄義村を上皇方に誘ったが、義村はその誘いを断り、義時につくことを誓う。ドラマの中では、義村が胤義から得た上皇方の情報を幕閣会議にもたらすような展開になると思われる。多分、襟を直しながら・・・。
参考文献:『鎌倉謎解き散歩』(奥富敬之・大野泰邦共編著)新人物文庫 2013