『鎌倉殿の十三人』~後追いコラム その151 | nettyzeroのブログ

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『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その151

第45回 八幡宮の階段

今回は、9年前に上梓した拙著『鎌倉謎解き散歩』から「公暁が実朝を暗殺した場所は?実朝の首はどうなった?」を引用します。

 

 承久元年(※1)(1219)正月二十七日午後9時ごろ、甥の公暁(寛一郎)に暗殺された実朝(柿澤勇人)の遺体は、翌二十八日、勝長寿院(しょうちょうじゅいん:廃寺)の傍に葬られた。討ち取られた実朝の首の所在がこの時までわからなかったので、前日、宮内公氏に預けられた遺髪を首の代わりとして埋葬したという(『鏡』同日条)。

 鶴岡八幡宮本宮前大石段左手にある樹齢千年とも言われた「隠れ銀杏」。平成二十年(2010)の暴風で倒れてしまったこの大銀杏の陰に、暗殺者公暁が隠れていたことは、有名だ。

 

鶴岡八幡宮の大銀杏があった頃 - 庭先の四季

(倒木前の隠れ銀杏)

大銀杏再生の記録~鎌倉:鶴岡八幡宮~

(現在の大銀杏:新芽が芽吹いて、日々成長している)

 

 しかし、暗殺場所に関しては、源平池に架かる赤橋あたり、石段ではなく社殿内部、実朝が駕していた牛車から降りた時など数多くの説があり、判然としていない。真相は闇の中。「親の敵はかく討つぞ!」と苦行が言った場所はどこなのか、大胆に推理してみよう。

 

鶴岡八幡宮「赤橋(太鼓橋/反り橋)」 | 鶴岡八幡宮-御朱印

(源平池に架かる赤橋)

 

 『愚管抄』(※2)によると、実朝はこの日、御剣役(ぎょけんやく)を務めていた北条義時(小栗旬)に、「中門ニトヽマレ」と命じた。つまり、石段上の楼門より中は実朝とそれに従う公家達のみであった。また、『鏡』承久元年正月二十七日条に「或る人の云く、上宮の砌(みぎり:場所)に於いて、別当阿闍梨公暁父の敵を討つの由(よし)名のらると」とある。つまり、現在の石段下にいたであろう千人もの随兵達は、実朝の暗殺の様子を伝聞として聞いているのである。また、「本宮の砌」とは本宮のあたりであろう。現在でも楼門を抜け、本宮に入るには何段か登らねばならない。

 

鶴岡八幡宮「御本殿(本宮/上宮)」【重要文化財】 | 鶴岡八幡宮-御朱印

(楼門をくぐると本宮(本殿)がある:おそらくこの内部で拝賀式が行われた)

 

 いずれもわずかな状況証拠に過ぎないが、これらをつなげると、実朝は右大臣拝賀の式を済ませ、源仲章(生田斗真)らわずかの公家を引き連れて、本宮を出ようとしたところで公暁に襲われたのではないだろうか。また当時、公暁が鶴岡八幡宮別当だったことを考えると、境内内部で、誰にも怪しまれずにある程度自由に動けたであろうから。

 

 公暁は犯行後、実朝の首を持って逃走した。途中、後見人の日中阿闍梨の雪ノ下北谷の宅で食事をする間、片時も実朝の首を離さなかった。その後、三浦義村(山本耕史)と連絡をとり、義村邸に向かう途中、執権北条義時から「公暁を討ちとれ」と命を受けた義村の討手長尾定景らによって斬られた。『鏡』はこの時、実朝の首については言及していない。

 

西御門の碑

(鶴岡八幡宮の東に隣接する幕府御所の西御門の碑:この近くに三浦邸があったと推定されている:とすると、公暁は実朝の首を持って鶴岡八幡宮の北西にあった備中阿闍梨の僧坊に行き、そこから東の山ずたいに義村邸に向かったものと思われる)

 

 しかし、「今将軍の闕(けつ:欠)有り、吾専ら(もっぱら)東関の長に当たるなり」といった公暁は、その証としての実朝の首を持っていたに違いない。すると、義村の討手に遭遇する直前にどこかへ隠したか、立ち回りの間に紛失してしまったのかのどちらかになろう。長尾定景らは、公暁の首を義村邸へ持ち帰っただけであった。

 

 実朝の首は探しても発見できなかったのか、それとも実朝暗殺の黒幕の一人かもしれない三浦義村は、自らの潔白を証明するため、公暁の首の持参だけしか厳命しなかったのかもしれない。しかし、『愚管抄』に「岡山(岡のような山)ノ雪ノ中ヨリモトメ出タ」とあるから、葬儀から程なくして発見されたようだ。

 

 その後、実朝の首はどうなったか。

(1)相模国大住郡波多野荘大聖山金剛寺:実朝の首塚とされる五輪塔がある。

 

源実朝公御首塚(秦野市東田原)へのバーチャル訪問 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

(実朝の首塚)

 

(2)紀伊国海部郡由良荘西方寺(後、興国寺):実朝の近習藤原景倫(かげのり?)が葬儀に立ち会った入道西入が持っていた実朝の頭蓋骨を葬ったという伝承がある。

 

興国寺 (源実朝の墓) - 平家物語・義経伝説の史跡を巡る

(実朝の墓と言われる宝篋印塔)

 

(3)高野山金剛三昧院(こんごうざんまいいん):無住『雑談集(ぞうたんしゅう)』に埋葬したと記されている。

 

金剛三昧院の経蔵から鎌倉時代の棟札 源実朝ゆかり、高野山で最古 | 毎日新聞

(尼御台政子が実朝を弔うために建立した金剛三昧院で今年3月、上の写真の経蔵から鎌倉時代の後期に修復されたことを示す棟札が発見され話題となった)

 

 ちなみに、公暁の首の行方についても、その経過は明らかではないが、『駿河志料』によると、沼津市の士詠山大泉寺(しえいざんだいせんじ)に公暁の木主(位牌)があるという。

 

大泉寺 (沼津市) - Wikiwand

(全成(新納慎也)の墓所としても有名な大泉寺:ここに公暁の位牌があるという)

 

 9年前なので、文章が少し若い感じがして、お恥ずかしい限りですが、9年前はこんなふうに実朝暗殺、そしてその首について考えていたということでお許しあれ。『鎌倉謎解き散歩』は現在、中古でしか手に入りませんので、悪しからず。

 

※1 健保七年四月十二日に承久と改元されるので、正確には健保七年。

※2 天台座主慈円(山寺宏一)の史論書。鎌倉時代前半の基本史料。