『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その150
第45回 八幡宮の階段
今回は、実朝(柿澤勇人)暗殺場面のおさらい
(目の前で源仲章が殺され、自らの天命を知る源実朝)
1219(健保七)年正月27日、右大臣に任命された実朝は、その報告のため鶴岡八幡宮を拝賀参拝した。拝賀とは、任官叙位した時などに、その謝意を神仏に告げることを言う。酉の刻(午後6時ごろ)、降り続いていた雪は二尺(約60㎝)積もっていた。たくさんの警備の御家人たちが見守る中、八幡宮の楼門に入ろうとした時、義時(小栗旬)は気分が悪くなり、将軍の太刀を仲章(生田斗真)に渡し、自分は小町の屋敷(現、宝戒寺あたり)に帰った。今話では、仲章が将軍の命令だと言って義時から太刀を奪い取るが・・・。つまり、義時は実朝暗殺現場にはいなかっし、目撃もしていない。
(義時はすでに自邸に戻っていて、暗殺現場は目撃していないが・・・)
以前にも書いたが、『鏡』は”石階”の脇で待ち伏せしていた公暁が、剣を取って実朝を殺したとだけ記し、暗殺場面を詳細には記していない。しかも、実朝と同時に殺された仲章に関しても、当日条には記事はなく、翌2月8日条に「(公暁は)義時が太刀持をしているのを知っていたので、その役の者を目指して首を切った。それが源仲章だった」と、前話のアバンタイトルで出てきたあの白い犬の謂れとともに簡単に記している。今話での仲章最期の言葉、「寒い、寒いよ、寒いんだよ〜」を聞いた時、私は50年ほど前の『太陽にほえろ』マカロニ刑事(萩原健一)の殉職シーンを思い出してしまった。マカロニは「かぁちゃん、あついよ」と言って絶命するあの有名なシーンを。
(公暁にトドメを刺される源仲章)
実朝が暗殺され、現場は大混乱なった。公暁は駆けつけた警護の御家人達に見つかることなく、上宮(本宮※1)のあたりで、「父の仇を討った」と名乗りを挙げた後、その場から蓄電した。警護の武士達と公暁の同志の僧兵達は合戦となり、僧兵たちは敗北した。その場に公暁はいなかったので、武士達は解散したが、皆呆然としていたという。
公暁は、八幡宮の北西にある後見人備中阿闍梨の僧坊(※2)に向かい、食事を摂った。食事中も実朝の首を離さなかった。公暁は義村(山本耕史)の下に遣いを送って、援助を求めた。義村は公暁に加勢するフリをして討手を差し向け、公暁は長尾定景に首を刎ねられた。今話では、義村の弟胤義(岸田タツヤ※3)が自邸で匿った公暁を、義村が討つ設定になっていたが・・・。
(ある意味、義村に裏切られた公暁:この後、公暁の首は義時の下に)
(現在の巨福呂坂(こぶくろざか):道も整備され、洞門となっている:鎌倉七口の一つ、巨福呂坂切り通しは、この洞門の上あたりを通っていたらしい)
鎌倉時代最大のミステリーとも言える実朝暗殺の黒幕。公暁の襲撃を察知しつつそれを実行させた義時。あわよくば実朝、義時を討って幕府の実権を握らんとした義村。そして義時と義村は、まさに『阿吽の呼吸』のようにお互いの思いを理解し、対立ではなく、共に手を携えて行く道を選ぶ。まるで実朝暗殺が、義時、義村の協働謀議だったかのように。これはこれで『あり』だなと思った。ただ、義時の前で咄嗟の弁明をした義村が、去り際に自らの襟を直す後ろ姿が気になった。気持ちと言葉が食い違っている時、義村は「襟を直す癖」があると前話で描かれていたからだ。残すところあと3回。いよいよ承久の乱、そして、義時の最期と続いていく。
でも、トウ(山本千尋)ちゃんが生きていてよかったぁ〜。
(気持ちと言葉が食い違っている時に見せる襟を直す癖:第44回より)
※1 有名な八幡宮の額が飾られているのが本宮(上宮)の楼門
(鶴岡八幡宮本宮の楼門:『八』の字は鳩サブレの原型)
※2 この辺りは、最盛期には25の僧坊があり、北谷、南谷、東谷、西谷の4地区に分けられていた。公暁が駆け込んだのは、北谷にある備中阿闍梨の僧坊だった。
※3 承久の乱では、朝廷軍の主力として後鳥羽上皇に与し、京都右京区の西山木島(このしま)社で自害してはてた。37歳だった。