『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その149
第44回 審判の日
今回は、義時(小栗旬)が建立した大藏薬師堂について
アバンタイトル(略してアバンとも:オープニングの前に挿入されるプロローグ)で義時と白い犬(ソフトバンクのカイ君、カイト君、カイキ君ではないようです笑)が見つめ合う場面の後、北条一族と運慶(相島一之)が戌神将を巡ってゴミカルな動きをする場面。あれは、義時が建立した大蔵薬師堂が舞台だ。
(十二神将戌神(じゅっしん):東京国立博物館蔵)
現在、神奈川県鎌倉市二階堂にある覚園寺(かくおんじ)。寺のHPによると、「1218年、北条義時公の薬師如来信仰により建てられた大蔵薬師堂が、覚園寺のはじまりです。」とある。本尊は薬師三尊坐像、十二神将。アバンタイトルの戌神将を巡る場面と一致する。覚園寺は、鶴岡八幡宮の前を通る金沢街道(※1)を東に進み、「岐れ道」を左折、鎌倉宮前を左折して進んだところにある古刹。現在は二階堂と呼ばれる場所にあるが、幕府草創期、この地域は『大藏』と呼ばれていた(※2)。
(覚園寺:鎌倉の駅からはちょいと遠い。駅前から大塔宮行きバスに乗って、終点から歩くのが良いかも)
大藏の地は、幕府草創期、政治の中心地であった。現在で言うと、鶴岡八幡宮の東方、史跡源頼朝墓を含めその南方の平地。鎌倉時代には、現在の西御門・雪ノ下の一部、二階堂・浄明寺、十二所を覆う一帯の呼び名であった(※3)。なので、義時が薬師堂を建てた時には永福寺がすでにあり、二階堂と呼ぶところを『大藏』を冠した御堂となった。
また、大蔵には頼朝の御所である大藏御所があった。伊豆で挙兵し、石橋山の戦いに敗れ、安房に逃れ、奇跡の復活を遂げた頼朝が、鎌倉の地に初めて構えた屋敷だ。現在、私立清泉小学校のあるあたりが、大蔵御所跡として比定されている。江戸時代に薩摩島津氏によって建てられた頼朝の墓は、大蔵御所を見下ろす場所に建立されている。
(大蔵御所見取り図:鎌倉ぶらぶらより)
(大蔵幕府後に建てられた碑)
そして、大蔵御所の東隣の金沢街道沿いには、北条義時の大藏屋敷があったと言われる。例えは極端だが、今で言うと、国会議事堂の隣に自宅があるような感じだ。義時の政治的地位の高さを象徴しているようにも思える。
最後に、義時が信仰していた薬師如来について。薬師如来は、来世を担う阿弥陀如来とは違い、現世、つまり人が生きているこの世で、すべての面で充足を与える如来として信仰を集めた。その薬師如来を本尊とする薬師堂を建てる目的は、多くの場合、罪過を懺悔する悔過(けか)を修めること。つまり、自分がこれまでに犯してきた罪を悔い改め、その罪による報いを免れることが目的。義時が薬師堂を建てる・・・これまで自分がしてきたことへの懺悔の心を象徴している。ちなみに、薬師如来の時間と方位を担当する眷属(けんぞく:従者)が十二神将だ。
(国宝 薬師如来坐像:新薬師寺:奈良県奈良市)
※1 鎌倉と六浦(むつら:現在の金沢八景)を結ぶ道。鎌倉時代は『塩の道』として栄えた
※2 二階堂の地名は、頼朝(大泉洋)が奥州藤原一族を討滅した際、当時としては珍しい中尊寺の二階建ての堂宇を見てビックリ。「お、俺だって、こんなもんすぐ作ってやる!(大泉洋風に(笑))と言って、永福寺(ようふくじ)を建立した。二階建ての立派な堂宇が立ったので、この一帯が二階堂と呼ばれるようになる。
※3 『国史大辞典』「大藏」項より。
※4 衆生(しゅじょう:人間を含めたすべての生き物)を救おうとする仏の願い