鎌倉殿の13人』~後追いコラム その147
第43回 資格と死角
今回は、大江広元の目の病について
政子「これでよかったのでしょうか?」
広元「尼御台は、今後もご自分の思った道を突き進むべきでございます。」
政子「頼りにしていますからね。」
広元「私は、頼朝様に呼ばれ、鎌倉に参りました。その後、頼家様、実朝様と代は替わりました
が、私がお仕えしてきた方はただ一人、尼御台にございます。」
政子「わたくし?」
広元「大江広元、二度と両のまなこではっきりと尼御台を見ることは叶いませんが、心の目には
今もありありと、その姿が映ります。」
政子「大江殿」
広元「はい!」
政子「重すぎます!」
広元「・・・失礼しました!」
実朝に、朝廷から養子を取らせることを決めた政子と、広元とのシリアスな場面でのやり取り。この場面を最後にクスッとさせる三谷幸喜はホントに凄い。そして、第35回「苦い盃」でネットがざわついた政子と広元との恋の予感まで、一気に回収してしまった。
ところで、この場面でも自ら話していたが、広元(栗原英夫)の目はどうなってしまったのか?
『鏡』1217(健保五)年11月8日条に、目の病気と腫れ物が合わさって、広元の具合が悪くなり、7人の陰陽師が『泰山府君祭(たいざんふくんさい)』を行ったという記事がある。『泰山府君祭』とは、陰陽道の祭祀の一つで、天皇をはじめとする貴人一般の間で、延命益算、富貴栄達などを祈願するもので、安倍晴明の創始とも言われる祭事。幕府の重鎮広元の病を慮ってのことだった。病気の原因は不明。腫れ物がどこにできたものなのか?詳細は全くわからない。
(泰山府君祭は死者をも蘇らせる陰陽師の秘術とも言われる)
翌日、広元の病が重篤な状況になったので、義時(小栗旬)は見舞いに訪れている。さらに翌11月10日、広元は危篤となり、出家し、覚阿(法名)となった。将軍実朝(柿澤勇人)も結城朝光(髙橋侃:たかはしなお:多分もう出てこない)に見舞わせた。
同年12月10日、『泰山府君祭』の効果があったのか、広元は危険な状況を脱した。そして、病の穢れを祓うために沐浴した。しかし、目はまだよく見えず、白黒の区別さえもよくわからない状態だった。目の不自由さは残ったものの、広元は、翌年2月10日には実朝の命を受けて使いを京に派遣している。政務に復帰したことがわかる。
実朝が暗殺される直前には、腹巻(簡易な鎧)を着けていくようにと実朝にアドバイスをするが、仲章(生田斗真)に先例がないとして却下されている。
広元は、その後も幕府宿老として幕政に参画し、重要事の協議に加わっている。1221年の承久の乱に際しても、いち早く軍勢を派遣すべきと宿老たちに訴えるなど、老いてなお衰えない広元だった。
1225(嘉禄元)年6月10日、広元は、78歳の生涯を閉じた。しばらく下痢が続いたのちのことだった。翌7月11日、広元とさまざまな苦楽をともにした尼御台政子も逝った。69歳だった。
(大江広元の墓:神奈川県鎌倉市西御門)
(北条政子の墓:鎌倉寿福寺:空輪・風輪・火輪(上の三つ)と水輪・地輪(下二つ)の材質が明らかに違う:形状は五輪塔)
(源実朝の墓:政子の墓の近くにある:形状は五輪塔)