鎌倉殿の13人』~後追いじゃない先取りコラム その90
第20回 仏の眼差し
今回は、八田知家(市原隼人)について。その2。
その1で、家来のヘマの責任を主人である知家が取らされ、鎌倉中の道路整備をさせられたことを書いた。今の政治家の「主人のヘマは秘書の責任」とは全く違って、結構真っ当であることをお伝えした。知家自身も何度かヘマをする。
1185(元暦二)年4月15日、頼朝(大泉洋)の推挙なしに勝手に任官した御家人名簿の中に知家の名がある(『鏡』同日条)。知家は「京都で任官されるなどということは、使えない馬が道草を喰っているのと同じ」と頼朝から酷評され、他の者たち同様、鎌倉に帰ってくることを許されなかった。『鏡』から半年ほど消えた知家だったが、同年10月24日の勝長寿院完成式典の際、導師への貢ぎ物となる馬を比企能員(佐藤二朗)と共に引いている。この半年の間に何があったのかは不明だが、頼朝の怒りが解け、その後は御家人としてさまざまな場面で顔を見せていく。
知家の鎌倉の館は、大藏御所南御門の前にあった(今の『岐れ道』の信号のあたりか)。当時、六浦(むつら)道(現金沢街道)と呼ばれた幹線道路に面し、さらに頼朝の御所に近かったこともあり、京都からの使者などの宿舎として使われた。知家はその饗応役としても頼朝に仕えていた。
1189(文治五)年7月17日、奥州征伐のため、頼朝は準備を進め、全軍を3つに分けることを命じる。知家は、千葉常胤(岡本信人)と共に太平洋側を攻め上る東海道(ひがしかいどう)方面の大将軍となった。知家は領地である常陸(茨城県南西部)の武士たちを率いて奥州征伐を戦った。
1190(建久元)年10月3日、頼朝が上洛のため鎌倉を出発する日、なんと知家は遅参してしまった。頼朝は、待てど暮らせど来ない知家に苛立ち始めた。お昼頃になって、ようやく参着した知家に頼朝は、「打ち合わせがあるので出発しなかったが、遅れてくるとは気持ちが弛んでるのではないか」と詰問する。知家は体調不良のため遅参したと言いつつ、「先陣と殿(しんがり)は誰がするのか?鎌倉殿が乗られる馬はどれなのか?」と即座に質問。頼朝の怒りの矛先を外らせる戦法か。頼朝は、先陣は畠山重忠、殿は未定。馬は梶原景時の黒斑(くろまだら:黒い馬体に白の斑紋のある馬)だと答えた。すると知家は、「先陣は(重忠で)ごもっとも。殿は千葉常胤ではどうか。長老なのでうってつけ。黒斑に乗られるとのことですが、あの馬は立派な馬ですが、鎧の色とマッチしない。私が一匹良い馬を用意しました。その馬をぜひ使ってください。」と提案。知家は、早速馬を御前に引いてきた。その馬は、体高が四尺八寸(約144cm)の黒い馬で、頼朝はすぐに気に入った。さらに知家は、「この馬は入京する時だけ、お乗りください。道中は景時の馬をお使いください。」とさらに提案した。イラついていた頼朝のご機嫌取りのなんと上手なことか。本来なら罰としてまた鎌倉中の道路整備を命じられても仕方ないのに。知家の老獪さが伺える逸話だ。
(黒斑の馬:当時の馬は、現在のサラブレッドよりもポニーに近い小型の馬だった)
ちなみに鎌倉を出発した軍勢だが、先頭が懐島(神奈川県茅ヶ崎市)に到着した時、殿はやっと鎌倉を出発したと『鏡』は記す。直線距離で約30km!そこまでやるかと言うほどの大軍を引き連れての上洛だった。
その後も知家は、有力御家人としてさまざまな場で『鏡』に登場する。そして、1199(正治元)年4月12日、頼朝の死から2ヶ月後、二代将軍源頼家(金子大地)を補佐する13人(これが『鎌倉殿の13人』)の一人として知家は選ばれる。
(この俳優さん、NHKドラマ10『しもべえ』で主人公の恋人役佐々木辰馬役やってた!ちなみにその主人公鴨志田ユリナを演じた白石聖は、現在のドラマ10『カナカナ』に出てる。そして、『カナカナ』には、大河ドラマで大姫の子供時代を演じた落井実結子も出てる。最近のNHKは俳優の使い回しが激しい笑)