『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その89
第21回 仏の眼差し
今回は、初登場の八田知家(市原隼人)について。その1。
いやぁ~八重(新垣結衣)死んじゃいましたね。鶴丸と我が子千鶴丸がオーバーラップして自らの命を顧みずに鶴丸を助ける。千鶴丸を父に殺され、最愛の人頼朝は政子の下に走り、失意のうちに真珠ケ淵(伊豆国市韮山)に身を投げたと言われる八重をここまで引っ張り、最後にそれを回収するとは三谷幸喜お見事!と言っている場合ではないですね。今回は八田知家でした。
知家は、1142(康治元)年、下野の名族宇都宮宗綱の四男として生まれた。頼朝(大泉洋)の父義朝の御落胤という説もあるが、確かなことはわからない。
今話では、義時(小栗旬)と土肥実平(阿部健治)が義経(菅田将暉)の思い出話をしている時、実平が鎌倉の道が工事されているのに気づき、(おそらく八幡宮あたりの工事なので)「バチが当たらなければ良いが」といった後に知家が登場。自分が鎌倉殿から命を受けた工事に難癖をつけるのかと言ったチョイ強面で初登場した知家。実は、頼朝の命で道路工事を行なったと言うのは史実。ただ、時期が合わない。
『鏡』1188(文治四)年5月20日条に「知家の家来である庄司太郎が、京都の御所の夜警に遣わされたが、サボっているという噂が立ち、その身柄を早く検非違使に差し出すように、と言う命令が出た。主人である知家は罰として『鎌倉中』の道路を造る(整備する)ように命じられた。」と記されている。これは義経の死の一年前のことだから、今回の知家登場場面とはちょっとズレている。まぁ、ドラマなので良しとしましょう。
御家人がミスった時の罰として、『鎌倉中』の道路を整備しろという命が下ることは珍しくない。ここで言う『鎌倉中』と言うのは鎌倉全体という意味ではなく、鎌倉の中の一部という意味だ。梶原景時(中村獅童)の場合を見てみよう。
1187(文治三)年3月10日、壇ノ浦の戦いの論功行賞を巡って、土佐国住人夜須七郎行宗(やすしちろうゆきむね)と景時が頼朝の御前で問答対決をした。行宗の主張は、壇ノ浦で周防(すおう:山口県)の住人で平家家人岩国二郎兼秀・同三郎兼末らを生捕りにしたので、ぜひ褒美が欲しいというもの。景時の主張は、壇ノ浦の戦いでは夜須などという者はおらず、兼秀らは自ら源氏軍に投降したのだ、行宗は悪巧みをして褒美をもらおうとしているというものだった。(『鏡』同日条)二人の主張は真っ向から対立していた。
そのに武蔵武士春日部兵衛尉(かすかべひょうえのじょう)が新たな証人として現れた。壇ノ浦の戦いの時、行宗と共に船に乗って合戦に参戦したと証言したのだ。結果、この証言が正しいと認められ、行宗には褒美が、景時は「讒訴の咎(ざんそのとが)」つまり行宗を陥れるために偽りの告げ口をしたという罪で、頼朝から「鎌倉中の道路を整備せよ」と命じられた。(拙著『鎌倉謎解き散歩』より抜粋)
景時の引用が長くなったが、今話での知家登場場面の裏にはこんなことがあったのだ。
(続く)