『鎌倉殿の十三人』~後追いコラム その88 | nettyzeroのブログ

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『鎌倉殿の13人』~後追いじゃない先取りコラム その88

第20回じゃなく第21回 仏の眼差し

今回は奥州藤原泰衡(山本浩司)の最後の悪あがき~兄国衡(平山祐介)とともに。

 

弾正 on Twitter: "藤原国衡&藤原泰衡がキャスティングされてる😁 #鎌倉殿の13人 https://t.co/qVpRNFBgUg" /  Twitter

 

 今日のテーマは、まるで高級レストランのメニューみたい。『高級フィレステーキ~春香る温野菜とともに』みたいな(笑)

 

 閑話休題

 

 義経(菅田将暉)の死から2ヶ月半後の1189(文治五)年7月19日御前10時ごろ、頼朝(大泉洋)は奥州藤原氏征伐のため鎌倉を発った。先陣は鎌倉武士の鑑と言われた畠山重忠(中川大志)、軍勢およそ1000騎。何度も朝廷に藤原氏の征伐許可の宣旨(院宣)を求めた頼朝だったが、この時までにその命令は下らなかった。

 

 頼朝が征伐に踏み切った背景には、大庭景義(『鏡』では景能:大庭景親(國村隼)の兄:頼朝挙兵等所から弟景親と袂を分かち、頼朝に与していた)の助言があった。鎌倉を発つ前の6月30日、頼朝は、武家のしきたりなど昔のことを熟知し、老境に達していた景義を呼んだ。頼朝は、景義に「朝廷に何度も催促しているのに、いまだに征伐の許しが出ない。すでに御家人たちを呼び集めてしまったのに。どうしたものか。」と尋ねた。景義は「戦争の時は、将軍の命令が絶対で、遠く離れた天皇の言葉を聴かないものです。すでに朝廷には鎌倉殿の胸の内を申し上げているので、いつまでも返事を待つ必要はないでしょう。それに泰衡は先祖代々の御家人の跡を継いでいるに過ぎない。朝廷からの命令がなくても、泰衡は家来筋なので、それに罰を与えるのに何の支障がありましょうか。集まってきた御家人たちが無為に時を過ごすことは、勝機を逃すことにもなりましょう。早く出発すべきかと。」と答えた。

 

大庭景義(景能)|源義朝・頼朝に仕えた、源氏譜代の大庭氏の武士

(大庭景義像:神明大神宮:神奈川県茅ヶ崎市)

 

 ドラマの中で景義は一度も登場していないが、彼は頼朝の父義朝時代から従っていた武士で、保元の乱の時、敵方で強弓の使い手として有名な源為朝に戦いを挑み、足を射抜かれ、以降歩行もままならずに弟景親に家督を譲り、懐島郷(ふところじまごう:神奈川県茅ヶ崎市)に隠棲し、懐島太郎と言われた。頼朝が挙兵した後も、頼朝の館建設などさまざまな場面で登場し、役目を果たした人物だ。多分、今回も景義は登場せず、前述のような場面は描かれないだろう。

 

 8月9日、先駆けを争った三浦義村(山本耕史)、葛西清重ら7騎は、阿津賀志山(あつがしやま:厚樫山:福島・宮城の県境)に陣を敷いた国衡軍の木戸口に攻め込み、合戦が始まった。翌朝午前6時ごろ、頼朝の大軍も国衡の陣地を攻めた。しかし、木戸口には鉾や長刀(なぎなた)がずらっと並べられ、矢が雨のように飛んできたので、なかなか攻めきれなかった。その時、前日に先陣争いをした者たちが、夜な夜な山道を迂回して、この時、国衡軍の背後にまわり、大声で鬨の声をあげた。国衡軍は搦手からも攻め込んできたと大混乱。砦に立てこもっては勝ち目はないし、かといって妙案も浮かばす、散り散りになって逃げていった。

 

刀剣ワールド】阿津賀志山の戦い古戦場:福島県

(今も残る防塁跡:福島県伊達郡国見町大字石母田)

 

 国衡は、出羽街道から大関山を越えようと大高山神社(宮城県柴田郡大河原町金ヶ瀬)あたりを駆け抜けようとした時、和田義盛(横田栄司)に遭遇し、義盛の放った矢で国衡は左腕を射られた。義盛も「これは特別な大将軍だ」と次の矢を射ようとした時、畠山重忠の大軍が来て、重忠の食客だった大串次郎に打ち取られた。国衡は、東北一の名馬『高楯黒(たかだてぐろ:肥満で巨体の国衡を乗せ、毎日3回平泉の高山を駆け上っても汗ひとつかかないと言われた名馬)』に乗っていたのに、手綱さばきを誤り、馬を深田に乗り入れ、身動きが取れない中での最期だった。

 

大河ドラマの歴代【藤原国衡】|大河ドラマデータベース|歴史や格闘技の情報 | JMMAポータル

(昔この人(長嶋一茂)も藤原国衡を演じていた:『義経』2005)

 

 阿津賀志山で兄国衡敗北の報を受けた泰衡は狼狽し、平泉を放棄し、北へ逃げた。玉造郡(宮城県玉造郡)多加波々城(たかばばじょう:宮城県仙台市青葉区の葛岡城??)に逃げた泰衡は、頼朝軍に城を包囲されそうになったので、脱出。再び、平泉に向かった。しかし、すぐに頼朝軍到来を察して逃亡。頼朝は軍勢をいくつかに分け、泰衡を探索した。

 

 8月26日、日の出とともに何者かが手紙を一通頼朝の宿に投げ入れてどこかへ行ってしまった。その手紙は泰衡が頼朝に宛てた物だった。そこには、「父秀衡が死んだ後、鎌倉殿の命令通り義経を殺しました。これは手柄と言えるのではないですか。なのに今、私は罪もないのに討伐されるとはなぜなのか。今は、先祖代々の住まいから離れ、山に潜んでます。これはとても悲しむべきことです。陸奥・出羽両国はすでに鎌倉殿が掌握されたのですから、この泰衡は許してください。そして、御家人にしてください。そうでもなければ、罪一等を免じて死罪を流罪にしてください。もしお返事をいただけるのなら、比内郡(秋田県大館市)あたりに手紙を落としてください。中身によっては、走って投降してきます。」と言うものだった。まるで義経の腰越状のよう。自分が置かれた立場を全く理解していない泰衡、そして往生際に悪い泰衡が見え隠れしている手紙だ。しかも、自分がいる場所の情報まで漏らしている笑

 

 頼朝は、手紙を落としてほしいと言った比内郡の徹底的探索を命じた。9月3日、泰衡は追手から逃れるため、北海道へ渡ろうと津軽に向かった。途中、泰衡は、大館贄柵(にえのさく:秋田県大館市二井田)まで来たところで、家臣河田次郎に裏切られて討ち取られてしまった。

 

(贄の柵跡)

(泰衡の首を洗ったとされる井戸:岩手県紫波町)

 

 9月6日、泰衡の首は、頼朝のいる陣ケ岡(じんがおか:岩手県紫波郡紫波町)に届けられた。首は梶原景時(中村獅童)を通じて頼朝の下に届けられ、和田義盛、畠山重忠さらに捕虜となっていた赤田次郎(奥州藤原氏の家臣)も加て首実検し、泰衡と確認された。首は義盛に預けられた。

 

 泰衡を討ち取った河田次郎は、梶原景時から「先祖代々の恩を忘れ、主人の首を刎ねるとは八虐(はちぎゃく:謀反、不敬など最も重い八つの罪)に値する。そんな者を御家人にはしない。」と言われ、結城七郎朝光に預けられた後、首を刎ねられた。

 

 泰衡の首は、頼朝の先祖頼義が前九年の合戦で敵の大将安倍貞任(さだとお)にしたのと同様に、約24cmの釘で板に打ち付けられた状態で晒された。清衡・基衡・秀衡と約100年間、東北に覇権を成した奥州藤原氏は、四代泰衡で滅亡した。