『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その87
第20回 帰って来た義経
今回は、静御前(石橋静河)について
静役の石橋静河さんは、石橋凌と原田美枝子(『ちむどんどん』で暢子が努めるレストランのオーナー)の娘なんですねぇ。個人的に静御前の役に少し違和感があり、何でだろう?と考えたら、『悪女(わる)~働くのがカッコ悪いなんて誰が言った?~』に出てたんですね。今田美桜主役のドラマで、結構ハマって毎週観てるので・・・。その中で石橋静河は巨大IT企業オウミのマーケティング・リサーチのチームで働く超倹約家で、不安のない老後を過ごすため、貯蓄をすることを目標とする女性梨田友子を演じました。本当は何事にも挑戦することや仕事が大好きなのに、それをひた隠す役柄。最終的には、主人公今田美桜にそれを見抜かれ、自分を取り戻していくというストーリー。これがまた良かったんです。このイメージを引きずって、静御前を見てしまったのが、いけなかったんですね。静河さんのせいではなく、私のせいです(笑)
(静じゃなかった静河さんのご両親)
(『悪女(わる)〜働くのがカッコ悪いなんて誰が言った?~』で梨田友子を演じる石橋静河)
前置きが長くなってしまった。閑話休題。
1186(文治二)年3月1日、京の時政(坂東彌十郎)の下にいた静と母磯の禅師は、鎌倉に入った。静は、頼朝(大泉洋)の命を受けた御家人たちによって、義経(菅田将暉)の所在について尋問を受けた。しかし、吉野で別れてからの義経の足取りは、静かにも分からなかった。3月22日、静が義経の子を宿しているのがわかった。
4月8日、頼朝と政子(小池栄子)は、鶴岡八幡宮を参詣した。その時、静は八幡宮の回廊で舞をまった。現在、鶴岡八幡宮に舞殿という建物があるが、これは1193年に立てられたもので、静が舞った建物ではない。静は、現在の舞殿が建てられる前、同じ場所にあった鶴岡八幡宮の仮宮の回廊で例の有名な舞を舞ったのである。
(鶴岡八幡宮舞殿(下拝殿):現在では時々結婚式が厳かに行われている)
ただ、静が頼朝たちに舞を披露するまでには少々時間を要したようだ。前々から静には頼朝たちの御前で舞を舞うようにというお達しがあったが、病気だと言ってなかなか言う事を聞かなかった。また、捕らわれの身なので、命令を聞かないわけにはいかないのだが、義経の愛妾として晒し者になるのは恥ずかしいとぐずぐずしていたようだ。
しかし、静はその名声が世間に知られた白拍子なので、その舞を見ずに京に返すのは勿体無いと政子が熱望したので、静は仕方なく応じた。回廊に現れてからも、上手に踊れる自信がないと辞退しようとしていた静だが、度々の求めに抗しきれず、
よしの山 みねのしら雪ふみ分て いりにし人のあとそ恋しき
吉野の山に逃げていったが、(吉野は女人禁制なので)自分は入ることができず、深く積もった雪を踏み分けて入っていった人(義経)の後ろ姿が忘れられません。
しずやしず しずのをだまきくりかへし 昔を今になすよしもがな
静々と糸巻きが何度も糸を巻き返すように、私もあの方(義経)と一緒だったあの昔が今巻き返せたらなぁ。
と歌い舞った。
(鶴岡八幡宮舞殿で毎年4月第二日曜日に「静の舞」が奉納される)
伴奏は、鼓が工藤祐経(坪倉由幸)、銅拍子が畠山重忠(中川大志)。『鏡』には、三浦義村(山本耕史)の名はない。
(鼓:すえひろがりずを思い出す(笑))
(銅拍子)
静の舞を見た者たちは、身分の上下を問わず、感動した。しかし、頼朝だけが、「八幡様への奉納なのに、関東(鎌倉)の安泰を祈り祝うどころか、反逆者義経を恋しく慕うような事を歌い舞うとは何事だ」と怒った。側にいた政子は、自分と頼朝とのこれまでの苦労を振り返りつつ、静の心情を理解して、褒めてあげなさいと頼朝を諭した。頼朝も自らの卯の花重(衣)を褒美として静に与えた。(『鏡』同日条)
5月14日、ちょっとした事件が起こった。工藤祐経、梶原景茂(かげもち:梶原景時(中村獅童)の三男)、千葉常秀(つねひで:常胤(岡本信人)の孫)、八田知重(知家(13人のメンバー)の子)、藤原邦通(公文所の役人)らが、酒を手に静の宿舎(頼朝の雑色安達清経の家)に押しかけてきて、宴会を始めた。飲めや歌えやで静の母磯の禅師も芸を披露した。その時、酔っ払った景茂が静を口説いたのだ(今ならセクハラ(笑))。静は涙ながらに「義経殿は鎌倉殿の御兄弟。私はその妾。鎌倉殿の家来であるそなたが、言い寄ってくるなど、私を誰だと思っているのか。義経殿が反逆者でなければ、このような酒の席にいることもありえないし、私を口説くなどとは以ての外なのに。」と。静の気丈さを垣間見る逸話だ。
5月27日、静は大姫(南沙良)の求めに応じ、勝長寿院で舞を披露する。閏7月29日、静は男子を出産する。頼朝は、この出産まで静を鎌倉に留めておいた。頼朝は、生まれてくる子が女の子なら静に与え、男の子なら将来親の仇として自分や自分の子供たちが狙われそうなので、小さなうちに殺すと前もって決めていた。生まれた子は男の子だったので、由比の浦に捨てさせようとした。静は必死に抵抗したが、母磯の禅師に諭されて赤子を安達清経に渡した。政子は赤子の命乞いをしたが、頼朝は許さなかった。赤子を殺したのは善児ではない!安達清経!
(由比ヶ浜:夏は海水浴客で賑わう:鎌倉時代は首実検場:義経の男児もここに沈められた)
9月16日、産後の養生で鎌倉に留まっていた静と母磯の禅師は、頼朝から許しが出て京に帰っていった。その後、静がどうなったのかは、よく分からない。義経同様、歴史の一幕を駆け抜けた、稀代の白拍子静であった。