『鎌倉殿の十三人』~後追いコラム その86 | nettyzeroのブログ

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『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その86

第20回 帰って来た義経

今回は、義経(菅田将暉)の最期について。

 

 義経の最期に関しては、『鏡』1189(文治五)年閏4月30日条で

 

 今日陸奥の国に於いて、泰衡(山本浩司)源豫州(義経)を襲う。これ且つは勅定(天皇が決めたこと)に任せ、且つは二品(にほん:頼朝)の仰せに依ってなり。豫州民部少輔基成朝臣(泰衡の外祖父)の衣河の館に在り。泰衡の従兵数百騎、その所に馳せ至り合戦す。豫州の家人等相防ぐと雖も、悉く以って敗績(はいせき:大敗してこれまでの功績を失うこと)す。豫州持仏堂に入り、先ず妻(二十二歳)子(女子四歳)を害し、次いで自殺すと。

 

と記されている。

 

鎌倉殿の13人:三浦透子が義経の正妻・里役 愛する人に妾「この感覚をつかむのは非常に難しかった」 - MANTANWEB(まんたんウェブ)

 

 今話の中で、義時(小栗旬)が追い詰められた義経のもとで、義経の鎌倉攻略法を聞かされる場面があったが、義時が義経の下を訪ねた痕跡はない。義時は秘密の抜け道を使って、難を逃れるのだが、同じことは義経もできたはず。もしかするとこれは、義経伝説、つまり、義経はこの時難を逃れ、蝦夷(北海道)に渡り、さらに大陸に逃れてチンギス・ハンになったという伝説に含みを持たせた演出だったのかもしれない。

 

今夜の鎌倉殿の13人】第20話「帰ってきた義経」鎌倉が灰になるまで戦ってみせる“静の舞”どうなる?― スポニチ Sponichi Annex 芸能

 

 『義経記』は読み物なので、少し劇的に義経の最期を記している。チョー適当な口語訳で。

 

 義経は、「そろそろ(自害の)時が来たようだ。どのように自害したら良いだろうか。」と側にいた兼房(架空の人物を言われる)に聞いた。兼房は、「佐藤忠信(義経の家来)が都で自害しましたが、その有り様は後々まで誉められたそうです。」と答えた。義経は、「ならば、傷口は大きい方が良い。」と言って、鞍馬寺にいた頃に寺の別当から譲り受けた『今剣(いまのつるぎ)』という名刀であり、義経の守り刀(刃渡約20cm)で、左の乳付近から刀を立て、背中に通れと掻き切り、傷口を三方向に切り裂き、腸を引き出し、刀の血を衣の袖で拭い、その衣を肩にかけて、肘掛けにもたれかかった。

 

今剣(刀剣乱舞) (いまのつるぎ)とは【ピクシブ百科事典】

(現代の『今の剣』はオンラインゲームのキャラクターになっている(驚))

 

 それでも死なない(笑)義経は、郷御前(三浦透子)に秀衡(田中泯)の未亡人のところか国衡(平山祐介)の下に行くように指示する。郷御前は拒絶し、兼房によって殺された。五歳になる若君と生まれて7日の姫君も兼房によって殺された。まだ死なない(笑)義経は、目を開けて、郷御前や子供たちのことを兼房に尋ね、その死を確認した後、「早く館に火をかけよ」と命じて、この言葉を最後に絶命した。

 

 主人公をあっけなく死なせないというのは、現代でもよくある話だが、ここまでくると義経は超人的と言わざるを得ない(笑)

 

 義経の首は、6月13日、泰衡の使者新田高平が腰越に持参した。すぐさま首実検(首の身元確認)が行われ、和田義盛(横田栄司)、梶原景時(中村獅童)らが、甲直垂(よろいひたたれ:武家の礼服)を着用して、郎党20騎を従えて参列した。義経の首は、黒漆の櫃に入れられ、腐敗防止のため酒に浸されていた。観る者は皆涙で両袖を濡らしたという。

 

直垂とは - コトバンク

(甲直垂:本来は鎧の下に着るもの)

 

 義経が自害してから約1ヶ月半。昔は4月5月6月が夏、さらに最近の研究で鎌倉時代の気候は、『中世温暖期』の中にあったことがわかっているので、酒に浸されたと言っても、義経の首の腐敗は相当だったと思われる。今では、エンバーミングという遺体保存技術があるが、それでも50日が限界という。だとすると、首実検が行われた時、果たして義経と判別できる状態だったのだろうか?

 

 ここから、義経伝説は始まっていく。あれは義経ではなかったと・・・。