『鎌倉殿の十三人』~後追いコラム その79 | nettyzeroのブログ

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『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その79

第18回 壇ノ浦に舞った男

 

今回は腰越状について。

 

(『腰越状』:萬福寺蔵)

満福寺 - 鎌倉市観光協会 | 時を楽しむ、旅がある。~鎌倉観光公式ガイド~

(萬福寺:神奈川県鎌倉市腰越)

 

 囚われのみとなり鎌倉に護送される平宗盛(小泉孝太郎)が「(義経のことを疎んでいる、鎌倉殿に)文を書いてみてはいかがだろうか?」と提案する。義経は自分は戦しか脳がなく、文など書けないと言ったところで、「書いて進ぜようか?」とその代筆を買って出る宗盛。今話で描かれている一場面だ。

 宗盛が代筆したかどうかは不明、というより書くはずがないと思われる。首が刎ねられるに違いない状況で、もし宗盛が代筆していたとしたら、宗盛は自分の置かれた立場をメタ認知できていない人、そうでないとしたらスーパーウルトラちょーいい人だ笑。さらに罪人である宗盛に、義経(菅田将暉)が、自らの書状を頼朝(大泉洋)に届けてもらうなどはもっとあり得ない。宛先は側近の大江広元(栗原英夫)だが。

 

 腰越の萬福寺に、義経の従者弁慶(佳久創)が書き損じたものと言われる『腰越状』が残されている(最初の写真)。また、『鏡』1185(元暦二)年5月24日条に『腰越状』と言われる文章がある。ちょっと長いが、それらを私のチョーテキトーな口語訳で。( )は大野付記。

 

 左衛門少尉源義経、恐れながら申し上げます。

申し上げたいのは、鎌倉殿の代官の一人となり、朝廷からの命令を受けた使いとして朝敵平家を倒し、代々の武芸を世に知らしめ、源氏代々の恥辱を晴らしたのに、そして、ご褒美をいただけるべきところ、想定外の「虎口の讒言(窮地に貶められるようなチクリ)」によって、たくさんある戦いの土産話もできず、義経は無実のままに咎めを受けることになったということです(義経には)武功はあっても、過ちはありません。(鎌倉殿の)お怒りを被ることは、虚しく血の涙が滲みます。

 色々と真相を考えてみますと、良薬は口に苦く、忠言は耳に逆らうという先人の言葉があります。讒言をした者の真偽も糺すことなく、(義経は)鎌倉にも入れないのでは、私の本当の気持ちをお話しすることもできず、徒に時を過ごしております。この時に当たって、長い間(鎌倉殿の)お顔を拝す事もできず、身内の契りも虚しいものになっています。自分の運もここに極まったということでしょうか。それとも前世の報いなのでしょうか。悲しいです。

 この手紙を亡き父(義朝)の御霊が再び現れたなら、どなたかに心の悲嘆をお話しいただき、どなたかきっと悲しみ憐れんでくれるでしょう。わざとらしい申し状、そして恨み事のように思われるかもしれませんが、義経はこの体を父母から授けてもらい、時を経ずに父に先立たれ、孤児となって、母に抱かれ、大和国宇多郡龍門の牧(牧場)に行って以来、片時も安心して暮らしたこともなく、不甲斐ない運命の下にあったとは言え、京で暮らすこともできずに諸国を流れ歩き、いろいろな所に身を隠して、辺鄙で遠い国を自分の住処として、土民百姓たちに付き従ってきました。

 しかし、好機はたちまちのうちに熟し、平家一族の追討のために上洛することになり、木曾義仲を討ち滅ぼした後、平家を攻め滅ぼすため、自分の命をも顧みずに、ある時には険しい岩山を駿馬に鞭打ち、あるときは大海の荒波の難を凌いで、たとえこの身は海底に沈み、屍が鯨の餌食になることも臆さず進んできました。このように甲冑を枕として眠り、弓を持って戦う本意は、偏に亡き父の魂の憤りを鎮めるという年来の宿望を遂げたい一心以外何もありません。

 ましてやこの義経が、五位の尉に任命されたことは、(※)当家の名誉であり、これまでにない世にも稀な重職だということ、これ以外に何もありません。しかし、今、自分は深く愁え、嘆きに満ちております。神仏の助けにすがる以外、この愁訴を拭うことはできません。そこで、諸神諸社の牛王宝印(ごおうほういん:災厄除けの護符)の裏に全く野心なきことを書き記すと言えども、なおもお許しが出ない。我が国は、神の国。神は非礼を受けるものではありません。

 頼るところは無くなってしまいました。ただひとえに、あなた様(大江広元)の広い御慈悲の心にすがるしかありません。便宜を計らって、さまざまな手を尽くして(鎌倉殿に私の気持ちを)お伝えいただき、(鎌倉殿が義経に)誤りがないということでご放免いただけたなら、その善行は(広元の)一族にまで及び、子孫にまで永く栄華が伝えられるでしょう。

 そして、(義経は)これまでの心配事が無くなって、一生の安寧を得ることでしょう。手紙では(自分の思いを)書き尽くすことができないことは省きました。どうかお察しください。

 義経、恐れながら謹んで申し上げます。

元暦二年五月日               左衛門尉義経

 

進上    因幡(いなば:鳥取)前司殿(大江広元)

 

腰越海岸

(腰越海岸:義経もこの景色を見たんだろうか・・・。もちろんビルはないだろうが笑)

 文中の※太字部分が、今話の中で頼朝達が、この手紙は義経が書いたものではないということを悟った部分。確かに、無位無官からの任官は名誉だが、頼朝・義経の祖父為義(源氏のどん底時代の当主)でさえ、左衛門尉になっているので、これまでにない重職とは言えない。

 『腰越状』については、以前から義経の書いたものではないという説はあった。『鏡』の編者(北条氏よりの者)が、頼朝の冷酷で無慈悲なことを世に知らしめるために書いた虚構だとか。今話でそれらの疑問が晴れたわけではないが、これまでの議論に一石を投じることにはなったのではないだろうか。