『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その78
第18回 壇ノ浦に舞った男
今回は弱音を吐いた和田義盛について
大河ドラマ前半の山場、壇ノ浦の戦い。期待が大きかっただけに、意外にチープな壇の浦だったように思う。義経も『壇ノ浦に舞った男』と題した割には、舞ってなかったし・・・(笑)
安徳天皇もその77で書いたような女官とのやりとりもなく、あっけなく入水してしまったし。
ちなみに、草薙剣は海底へと沈んでしまったが、八咫鏡(やたのかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は合戦後に回収された。宝剣は布に包まれ、水を含んで沈んだが、箱に入れられていた残りの2つは、海面に浮いてきて回収された。
(第18回で放送された伝説の「八艘飛び」のシーン)
今話のオープニングテーマ後の場面。
1185(元暦二)年、周防(山口県)松崎天満宮で、和田義盛(横田栄司)は源範頼(迫田孝也)と北条義時(小栗旬)に向かって、「いつになったら兵糧が届くんだ。これじゃぁ九州に渡る前に全軍飢え死にだぁ。腹減ったなぁ。もう我慢ならん。鎌倉に引き上げようぜ。戦なんてやってられねぇよ!」と嘆き、範頼に諭される場面があった。
『鏡』1185(元暦二)年1月6日条に「平家を追討するため、西海(本来は九州を指すが、まだ頼朝軍は九州に渡っていないので、ここでは西日本といったところか)に派遣されている東国武士たちは、船がなく、兵糧(食糧)もなく、合戦するどころではないということが(鎌倉に)伝わってきたので、日頃から議論があった。そして、(西海に)船を用意して兵糧米(食糧)を送るべきという命令が東国に伝えられた時、三河守範頼から手紙が届いた。去年(1184)11月14日に送られた書状だった。(それによると)兵糧が欠乏し、兵たちはまとまらず、それぞれが故郷を恋しがり、過半数は逃げ帰ろうとしている。」とある。つまり、頼朝軍の兵糧不足は、1184年からのことだったのである。
また、『鏡』1185年1月12日条には、「範頼は周防から赤間関に到着した。平家を攻めようと、そこから海を渡るにも船もなく、兵糧も尽きて、東国武士たちには、厭戦気分が広がっていた。多くの者たちは故郷を恋しがり、和田義盛などは、こっそりと鎌倉に帰ろうとしていた。(義盛にしてこの有様なので、)他の武士たちは言わずもがなである。」と記す。これが今話のあの場面だったのである。
同年1月26日、豊後(大分県)の豪族緒方惟栄(おがたこれひで)と臼杵(大分県南部)惟隆(これたか)が兵船82艘を献上。さらに周防国住人上七遠隆(こうしちとおたか)が兵糧米を献上した。これによって、範頼軍は豊後国(大分県)に渡ることができた。
(緒方惟栄像:豊後大野市歴史民俗資料館蔵)
こうして見ると、範頼軍は約2ヶ月半ほど兵糧欠乏状態にあったといえる。もちろん、現在の大消費地東京とは全く違い、野山に囲まれた当時の周防なので、野草や獣、魚などで食いつなげたことだろう。今話で、範頼が魚を釣りに行こうとした時、義盛の「よしましょうよ。言ってるだけですから。」というセリフからもそうした状況を推測することができる。義盛の弱音もそんなにマジって感じではなかったのである。