『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その52
第11回 許されざる嘘
今様(いまよう)について。
今話の中で、後白河法皇(西田敏行)が酒席で、鼓に合わせて唸っていたのが『今様』だ。『今様』とは今風というような意味。当時の流行の最先端の歌遊び。法皇は、この今様にどっぷりハマった権力者として有名だ。好きが高じて『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』という今様歌集まで作ってしまった。言うならば、今の皇室の方々が宴席で、「はぁ?うっせぇ、うっせぇ、うっせぇわ あなたが思うより健康です!」(Ado)とノリノリで歌い、自分が好きな歌を後世に残そうと自らソングブックを作った感じ 笑。
(後白河法皇像:伝運慶作:法住寺蔵:法住寺は後白河の御所があった場所)
法皇は宴席に自らの側近たち(院近臣(いんのきんしん))を集めたり、彼らが催す宴席に出向いたりした。今様だけでなく、当時の芸能を楽しむ宴席は単に飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎだけでなく、きな臭い政治的企てを密談する場でもあった。
(法住寺で開かれた今様)
1177(安元三)年、京都郊外鹿ヶ谷にある真言僧俊寛の山荘で、平家打倒の密議が何度か行われ、ある時、法皇も臨席した。メンバーは、西光・藤原成親・俊寛(真言僧)・静賢(天台僧)・平康頼・多田行綱(多田源氏の武将)ら、後白河の近臣(側近)もしくは反平家の面々。飲むほどに酔うほどに盛り上がった。『平家物語』は次のように記す。
過去に何度か平家打倒の密議をしたと法皇が静賢に伝えると、「すごいことを聞いてしまいました。たくさんの者たちが話を聞いています。事が露見したら大変です。」と静賢は狼狽。同席の藤原成親も、血相を変えて立ち上がった。すると成親の着物の袖が側にあった瓶子(へいし:酒瓶)に引っかかり、倒してしまった。法皇が「どうした?」と聞くと、成親は「平氏(瓶子)が倒れました」と。法皇は大いに笑い、「者ども猿楽(さるがく:猿まね(物まね)など笑いの芸)を誰か演じよ」と命じると、平康頼は「平氏(瓶子=酒)が多すぎて、酔っ払ってしまいました。」と。俊寛が「瓶子(平氏)を如何しましょう」と言うと西光が「頸を取るに越したことはない」と言って、瓶子の頸を折って取ってしまった。
(鎌倉時代のものとされる瓶子:愛知県陶磁美術館蔵)
宴席は盛り上がり、平氏への鬱憤は晴らされたかに思われた。しかし、出席者の中の多田行綱(成親たちが反平氏挙兵の大将軍として期待していた人物)は、こうした醜態と計画の無謀さに嫌気が差し、密議の内容を平清盛にチクってしまった。
法皇は知らぬ存ぜぬを貫いて難を逃れたが、俊寛と康頼は薩摩鬼界ヶ島へ流された。康頼は後に赦免されたが、俊寛は後に自害。成親は備前国(岡山県)に流され、餓死寸前まで追い込まれた末、崖から突き落とされて殺された。西光は、拷問された後、首を切られた。世にいう、鹿ヶ谷の陰謀事件である。何事も政治が絡むと厄介なことになるのは、今も昔も変わらない。
(俊寛像:鹿児島県硫黄島:赦免船に縋りつこうとする俊寛:実は俊寛が流された鬼界ヶ島の場所は諸説ある)
ちなみに、この事件は、法皇から比叡山を懲罰せよと命じられた平清盛が、命令を聞きたくなかったので、事件をでっち上げたと言う説があることも付言しておく。