『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その50
第11回 許されざる嘘
南都焼き討ちについて(その2)
東大寺南大門の左右にある金剛力士像。左が口を開けた『阿形像(あぎょうぞう)』、右が口を閉じた『吽形像(うんぎょうぞう)』。阿吽とは、「梵字の12字母の、初めにある阿と終わりにある吽。密教では、この2字を万物の初めと終わりを象徴するもの」(デジタル大辞泉)とされる。阿吽の呼吸でも有名な2文字だ。
(東大寺南大門)
筋肉隆々で腰をくねらせた躍動感ある立像。運慶・快慶らによってわずか69日で造られた。8mもの仏像がなぜ短期間で完成したのか?それはこの仏像の製作技法による。
(東大寺南大門金剛力士像 左:阿形像、右:吽形像)
『寄木造(よせぎづくり)』。平安時代中期に定朝(じょうちょう)という仏師が完成した技法。当時、死後は極楽浄土へ行きたいと願う浄土信仰が貴族たちに広がり、仏像需要が急増。それまでの一本の木から掘り出していく技法(=一木(いちぼく)造り)では、需要に追いつかない。そこで定朝は、仏像を部品ごとにバラバラに作って、最後に組み合わせる技法を完成した。プラモデルのような感じ。たくさんの部品を寄せ集めて完成するので『寄木造』。定朝は藤原頼通の平等院鳳凰堂(10円玉に刻まれているお堂)の本尊阿弥陀如来像を造像した。これは定朝が確実に作ったとされる唯一の仏像だ。定朝が造像したと伝えられるものはいくつかあるが、それらは『定朝様(じょうちょうよう)』と言われ、寄木で作られてはいるが、定朝が作ったものかどうかは分からない。
(寄木造)
(平等院鳳凰堂:中央の金色に輝くのが定朝作 阿弥陀如来坐像(座高277.2m)
(阿弥陀如来坐像)
この寄木造の技法を用いて、金剛力士像は造像された。何と3000にも及ぶ部品でできているという。焼け落ちる以前の南大門と安置されていた仏像がどのようなものであったかはわからないが、運慶・快慶の力作を今リアルに見られるのは、不幸中の幸いかもしれない。
続いて、大仏と大仏殿について。焼き討ちによって、首が落ちてしまった大仏。その修復には中国から渡来した工人が大きな役割を果した。その名は陳和卿(ちんなけい)。彼の技術力によって大仏が蘇った。また、大仏殿も同様に大仏様によって蘇る。しかし、彼は全く別なことでも歴史に名を残した。
三代将軍源実朝(柿澤勇人)は、彼と会ったに際、「あなたは中国の育王山(アショカ王の遺骨が収められている寺)の長老で、私はその部下でした」と言われ、誰にも話していない以前見た夢の内容と同じだったので、陳和卿を信じこんでしまった。さらに唆されて中国に渡るための大きな船まで建造した。その船は、完成後、由比ヶ浜から海へと曳航したが、浮かぶことなく、浜辺で朽ち果ててしまった。陳和卿はその直後に逐電し、その後のことはわからない。おそらくは莫大な建造費用を懐に入れてトンヅラこいたと思われる。
(源実朝坐像(木像):甲斐善光寺蔵)
陳和卿はとんだ食わせ者となって、歴史から姿を消す。(その3)に続く。