『鎌倉殿の13人』~後追いコラムその2
今回の大河ドラマの主役とも言える源頼朝を取り上げる。
一般的に頼朝は弟で平家打倒の立役者でもある源義経への猜疑心から切り捨てた冷酷な人物という印象が強い。しかし、頼朝は単に弟をやっかんで切り捨てたのではない。新しく武家の世を創設という大望を持つ頼朝は、自分の許しなく勝手に官職に就いた義経は組織の長として許せなかったのだ。もし許せば、「やはり身内には甘い」と言われかねない。そうなったら組織は崩壊してしまう。
反面、義経は戦の天才であったかもしれないが、頼朝のような政治性は皆無だった。頼朝から鎌倉への帰還を拒まれた時も、官職を得たのは源氏にとって名誉なことと最後までことの何たるかを理解できなかった。(『腰越状』)こうした兄弟のやりとりは、番組的にはまだまだ先の話になるので今回は頼朝の人となりに関して考察する。
1147年、頼朝は後の源義朝と熱田神宮大宮司藤原季範の娘との間に生まれた。この時、頼朝にはすでに二人の兄がいた。頼朝は三男だった。長兄は源義平。悪源太の異名を持つ兄は、遊女もしくは相模の豪族三浦一族の娘を母とした。次兄朝長は、相模の豪族波多野義通の娘が母であった。頼朝が、生まれた時から源氏の嫡流、源氏の後継とされたのは母の身分が高かったからである。母の名は由良御前。外祖父季範は従四位下の官位を有する貴族であった。
頼朝は、熱田で生まれた後、都で源氏の御曹司として成長する。頼朝十歳の時、父義朝は保元の乱で勝利し、平清盛と共に武家の頂点に立とうとしていた。両雄並び立たず。やがて、清盛と対立が激化し、両雄は戦うことになる。1159年の平治の乱である。清盛が熊野詣でに出かけ、都を留守にしていたのを好奇と捉え、義朝は政治の実権掌握を目論む藤原信頼と手を結び、クーデターを起こす。その時、頼朝は右兵衛権佐(うひょうえのごんのすけ)に任命された。大河ドラマで頼朝が『すけどの』と呼ばれている所以である。輝くべく源氏の御曹司として将来を嘱望されていた頼朝だったが・・・(続)