『鎌倉殿の13人』~後追いコラムその3
源氏の御曹司頼朝の生涯は、順風満帆ではなかった。平清盛との武家トップ争いに勝利すべく奇襲先制攻撃を仕掛けた父義朝であったが、急を聞きつけて都に戻った平家軍に惨敗。(平治の乱)負けた義朝は僅かな手勢を率いて都落ち。
この戦いが初陣であった頼朝は戦に負け、父と共に都落ち。戦の疲れからか13歳の頼朝は馬上で眠ってしまい、仲間とはぐれてしまう。父義朝も必死に探し、何とか合流を果たすが、頼朝は再び馬上で寝てしまった。仲間とはぐれた上に今度は清盛の追手に囚われてしまった。
都に連れ戻された頼朝は、囚われの身となり戦で亡くなった者達を弔う日々を送る。いつ何時、処刑されるかわからないという不安の中で。その幼気な姿を見ていた池禅尼(清盛の継母)が清盛に助命を願い出たことによって、頼朝は伊豆蛭が島に流刑となった。幼くして我が子家盛を失った池禅尼が頼朝に我が子をオーバーラップさせていたとも言われる。かくして頼朝は伊豆に流人としてやって来た。
ここで当時の流刑について。平安時代は律令という法律によって物事が進められた時代。刑罰は大きく分けて五種類。笞(むち)で叩く『笞(ち)』棒で叩く『杖(じょう)』懲役刑である『徒(ず)』流罪である『流(る)』死刑の『死(し)』だ。頼朝は『流』刑となったわけだが、流刑にも近流(こんる)・中流(ちゅうる)・遠流(おんる)があり、都からの距離によって流される地域が定められていた。
遠ければ遠いだけ重罪ということになる。頼朝が流された伊豆国は遠流の地の一つだ。伊豆以外の遠流の地は安房国、佐渡国、隠岐国。頼朝は遠流の地の中でも都と陸続きの場所に島流しになったということになる。便利に移動できる交通手段がなかった時代。都から遠いところに流されるといういことは、都へ戻ることなど不可能。頼朝は死ぬまで流人として生きて行かなければない『はず』だった。流されてから20年後の1180年、時代は大きく動き始める。頼朝もこの時代のうねりの中に飲み込まれていく。(続)