不二家の一元の客の話
19/02/08 04:00
ポニョ:サイババと精神科医という本を書かれたサミュエル サンドイッチさんが、夕方周りが暗くなって来た時に、
ヨシオ:サンドイッチさんて誰やねん。違うやろ。確か…
ポニョ:サミュエル サンド豆さんや。
ヨシオ:それも違うっちゅうに。ポニョにかかったら何でも食べもんになるんやな。まあどっちでもええわ。
ポニョ:おちょけてたら本当の名前を忘れたぜよ。何やったかな?三度忘れやったかな。
ヨシオ:余計に悪くなってるやないの。サンドワスレではなくサンドワイスやろ、多分。
ポニョ:それでババはサンド豆さんに「車から降りて一緒に歩こう。このように私と二人で歩くという経験は君にとって、とても良いことや」と言われたんや。その時、ババは牛の糞が落ちていると言われたんやけど、サンド豆さんは聞き取ることが出来なかったので、もう一度きくと牛の糞が落ちているから踏むなよ、と言われたんやけど、そういう会話がとても日常的で面白いよな。
ヨシオ:暗闇で見えなかったんやろな。ババは目立つから、通りを歩いていると人がたくさんついて来るので、こんな夕方遅くなってからしか歩けなかったんやろ。ババがサンド豆さんにこのように言われたのは、この物質世界で体験したことは因果の世界に刻まれていつまでも残るということを言われてるんや。
ポニョ:アカシックレコードやな。それって。
ヨシオ:そして、それが後で心の世界で思い出すことが出来るって言われている。サンド豆さんのようにババと一緒に歩いたり話したり、またはピクニックに行って一緒にお弁当を食べたりした経験は、ずっと後になっても因果の世界に残るんや。目を閉じた時に、その時の体験が心の中に浮かび、まるでその場にいるような気になって来るんや。
ポニョ:おいらも、最初に嫁さんとデートをして楽しかったことを、今でもつい最近のように思い出すことが出来るぜよ。大文字山に一緒に登ったり、大原三千院や嵐山、清水さんにも行ったな。でも、一番覚えているのは、その時に安もんの飯屋で食べた定食の中身やな。味まで覚えているぜよ。
ヨシオ:それってすごいよな。味まで覚えているって。このように人は過去に体験したことをアカシックレコードに記録し、因果の世界にそれがずっと残っているんや。そのあと、しばらくしてからその記憶を、心の世界でまた呼び戻すことが出来るんや。だから、ヒマラヤで修行しているヨギたちがババの元にやって来たけれど、ババはそういうヨギたちに普通インタビューを与えないんや。だって必要がないから。
ポニョ:そういう霊的レベルが高いヨギたちは、少しだけババを見ただけで、そのババの御姿を因果の世界に焼き付けることが出来て、いつでもそれを取り出すことが出来るんやな。あんたがババと組み体操出来るみたいに。
ヨシオ:人はババにインタビューを求めるけれど、インタビューよりババを心に焼き付けて、いつでもそれを取り出せる修行をしないといけないんや。一旦それが出来るようになると、外の世界に神様を求める旅は終わるんや。
ポニョ:インタビューよりインナービューやな。
ヨシオ:俺がインタビュールームにババに呼ばれた時、ある帰依者がババにこんな事を聞かれていた。「このババのアシュラムを訪れた後に、君は一体どこのアシュラムや聖地に行って神様を見つけに行くんだい」と。そして、俺の方を横目で見ながら笑っていた。その人はリシケシュに行くと言ってたな。
ポニョ:その人はババのところが双六の上がりやって気付いていなかったんやな。目の前に神さんがいるのにな。面白い。
ヨシオ:神さんを外の世界に求めてあちこち探し回っても、結局神さんを見つけることは出来ないんや。自分の内に神さんがおられる事に気付くまで。それが昨日、ポニョが言った二元論から、条件付き一元論への道なんや。
ポニョ:つまり、外の世界に神さんを探し、自分と神さんが分離していると思っているのが、二元論で、そうではなく、自分の中に神さんがいると確信し、自分はその神さんの一部分であって、その神さんを信奉するのが条件付き一元論やな。
“自分の肉体に執着し「自分は肉体だ。」という意識のある限りは、かたちも属性もない絶対の存在はわからないし、そこに達することも出来ません。
かたちの無い神を敬う資格は、自分の肉体への執着も、世間への執着もすべて捨ててはじめて得られます。
自分は肉体だと思い込み自分には自分の姿があると思っている限りは、形のない神に達することは決して出来ないのです。SGc3”
ヨシオ:ダルシャンでババを見神し、そのババともっとお近付きになりたいと思う心が、二元論から条件付き一元論に導いて行くんや。だから、ダルシャンでババは人々の間を歩き回っておられるけど、ダルシャンに来た人たち全員をインタビューに呼ばれるとは限らないんや。
ポニョ:わざと心の中のババに人びとを導くためにそうされているんやな。心の中の神を求めさすために。
ヨシオ:また、もう一定の霊的レベルに達している帰依者には、声もかけられない事だってあるんや。
ポニョ:ヒマラヤから来たヨギの様な人達にはそうされるもんな。
私がヒマラヤで苦行に従事している者にダルシャンを与えるとき、たとえそれがほんの数秒であっても、彼らはその神のビジョンを得られたことでこの上ない至福を感じます。
そして、それをとてもすばらしい経験であると見なします。
しかし、あなた方は皆、毎朝毎夕私のダルシャンを得ていながら、未だにその価値にまったく気づいていません。9/98SNSarthi
ヨシオ:だから大切なことは、ダルシャンで神を見て、神の事を強くいつも思いっていると、神を心の中で感じることが出来るようになるんや。つまり、実は神様がいつも自分の心の中におられたんや。と感じる事が出来るんや。その段階まで行くと、あとは神様をじかに体験することが可能になって来るんや。
ポニョ:つまり、自分が思い焦がれている神さんを強く思えば、神さんが自分の心の中にいることを感じれて、そして、体験出来るって事なんやな。星やんがいつも言っていたけれど、ババが星やんの前に姿を現す時は、星やんがいつも礼拝している写真のババが出て来られるんやて。
“皆さんは、ここプラシャンティニラヤムに一時間ほどいるだけです。
ところがこれは、帰ってからも消えることの無い永遠の経験になるのです。
最初に目の覚めた状態で経験したことは因果の世界に何時までも残り、それがあとになって心の微妙な世界で思い出すことが出来るのです。SG”
ヨシオ:その通りなんや。帰依者がいつも礼拝している神さんの姿が、その人の心の中にもうプリントして焼き付けてあるので、その御姿で出て来られるんや。だから、礼拝している神さんの写真を変えたりしたら、今までの霊性修行が無駄になるんや。
ポニョ:心にせっかく刻まれようとしている神さんのイメージが潰れてしまうもんな。
ヨシオ:その自分がイメージした神さんの御姿を大事にしないと、心の世界でそれを思い浮かべてもなかなか出て来ないやろな。若い時のババのイメージやら、晩年のババのイメージやらいろんな違うイメージを心に刻んでいたら。
ポニョ:あんたも、いろんな年代のババの絵を書いて喜んでいるやんか。
ヨシオ:俺の場合はもうしっかりとババが心の中にイメージ出来ているから、そこんとこは問題無いんや。
ポニョ:そうやな。ババと言葉も交わせるしな。ババと組み体操をやってたな。おいらもやってみたいな。一度でいいから。
ヨシオ:ポニョがそう願っている以上に、実はババの方がもっとそのようにして帰依者と遊ぶのを願っておられるんや。帰依者がそのレベルに達してくれないかなー、とずっと待っておられるんやで。
ポニョ:遊び相手が欲しいのか、神さんは。
ヨシオ:そうやろな。神様はいつでも四六時中遊んでおられるんや。だから早くポニョの中におられるババと遊んだげてやってな。でも、帰依者が心の世界で神さんをイメージし、ババと言葉を交わすことが出来るようになって、一緒に遊んだりして喜びに満ち溢れた体験をしても、実はまだ帰依者は満ち足りないんや。
ポニョ:何でやねん。神さんと一緒に遊び、言葉を交わす事が出来ればそれで充分なんと違うんか。
ヨシオ:いや、それではまだ充分な喜びを得れないんや。ポニョも昔から長い間、神様を追い求めて来たけれど、ババのことを知って、ああ、自分が追い求めて来た神様に会いたいな、と思ったやろ。
ポニョ:おいらはとても嬉しかったな。遂に見つけたなっていう感じかな。ムーという雑誌にサイババ特集が組んであったんや。1986年ぐらいやったかな。今から考えるとずいぶん前やな。それを読んで直ぐにインドへ行ったぜよ。
ヨシオ:そのように先ず神様を知る段階が二元論の段階や。でもその段階では神様と私は違う。別ものや、と思っているやろ。でも神様に会って、神さんの教えに触れると、ああ自分は神様の一部やったんや、とだんだん分かって来るやろ。これがポニョが好きな不二家のオマケ付き一元論や。
ポニョ:あんたが勝手に不二家のオマケ付きキャンディって言ったんやんか。おいらはお腹が出て来るからキャンディは余り食べないんや。好きやけど。でも、白砂糖が山ほど入っているからガンになるんやぜよ。アスパルテームも入っていたら脳細胞も破壊されるし、おいら達の周りは毒がいっぱいなんやぜよ。気を付けないと。特にお子さんがいてる家庭では…。
ヨシオ:ちょっとストップしてくれる?食べ物の話になると機関銃みたいにいろいろな話が出て来るなポニョは。話題を元に戻すと、不二家のオマケ付きキャンディじゃない、条件付き一元論の段階に到達すると、さっきも言ったように、いろいろと神さんと話したり遊んだり出来るんや。でも、この段階で修行者は休んだり終わったりしてはいけないし、また自分自身も本当に満足していないんや。というのもまだその段階では、その人は神と完全に融合していないから。神さんと自分は実は一つだったのだ。俺たちは一つの存在だったのだ。と思うことが出来るまで、修行を続けて行かないかんねん。
“究極の段階である、完全に神の中に入り、神と一つになるまでは、休息も安らぎも、満ち足りた思いも持つことは出来ません。SGc6”
ポニョ:それって、どういうふうに修行をすればええんや。
ヨシオ:しっかり、不二家のオマケ付きキャンディーを…
ポニョ:もうええっちゅうに。不二家の回しもんかあんたは。不二家の一元の客じゃないんやからええ加減にしなさい。
ヨシオ:俺たちはそれぞれ海に流れ込む川のように、神さんを求めて修行を続けて行くんや。川は海に到着するまで流れ続けるやろ。途中でヤーメタなんて言わないやろ。その川である俺たちは、海である神さんと一緒になって行くけど、川の水は河口に近づくに連れて塩辛くなるように、神さんの特性を少しづつ自分に付けていかないといけないんや。
ポニョ:神さんの特性って何やろか。先ず全てを愛する大きな心やろ。その次に自分を勘定に入れない無私の心やろ。それから…
ヨシオ:それだけあったら充分や。川の水は最初海の中にいたんや。それが太陽の熱によって蒸気となって雲になり、雨となって川となり、最後にまた自分の生まれ故郷の海に戻って行くんや。その生まれ故郷に戻りたいと思う強い気持ち、つまり神を追い求める強い愛の気持を持って旅を続ける事が大切なんや。
ポニョ:星やんも「神さんへの道を歩むには、大人しい良い子でいてたらあかんねん。神様を求めて泣かないとダメなんや。自分は別にそんな泣くとか叫ぶとかしなくても、神さんの事を瞑想の時にしっかり思っているし、お祈りもヴェーダも唱えてる。だから、泣いて神様を求めるなんて恥ずかしくて出来ないなんて思っていたらダメなんや。自分のエゴを子供のように小さくして、泣いて神様を求めたら、神様は必ずお母さんのように、子供になった自分を抱きかかえてその愛の泉の中に浸してくれるんや」て言ってたな。
“聖者たちは、熱心に神に祈り、心の底から神の愛を求めました。
サキュバイやミーラが神と離れていることに耐え切れずに泣いたように、神を求めて泣きなさい。彼らが神の御姿を見ることができ、神の恩寵をいただくことができたのは、そのような熱烈な願いがあったからに他なりません。
しかし、カリユガの時代の影響によって、人々は、まったく何の努力もせずに神の恩寵を得たいと思っています。
神への愛が減少しているために、邪悪さ、悲しみ、暴力が増大しています。
皆さんの妬みや怒りのようなよこしまな性質を、すべて愛に変えてしまいなさい。28/7/99”