豊田湖の湖畔、
「天皇様」というすごい名前のバス停のそばに建てられている
「網掛の森 西側前方凡三十米湖底」の碑と
「烏賊か淵 西側前方凡二百米湖底」の碑です。
バス停の名前の「天皇」とは、安徳天皇のことです。
安徳天皇は、平清盛の娘・徳子(建礼門院)の息子であり、
清盛の妻・時子(二位の尼)の妹の孫でもあります。
1180年、数え3歳(満1歳4箇月)で即位しました。
同年、清盛は福原への遷都を行おうとしますが、失敗。
翌1181年に清盛は死亡しました。
そして、1183年、源氏に追われた平家とともに、
安徳天皇は都を離れます。
同年には、安徳天皇が退位しないまま、
異母弟の後鳥羽天皇が践祚しています。
都を追われた安徳天皇は、大宰府を経て屋島へ。
そして、ついに1185年、壇之浦の戦いで、
二位の尼に抱きかかえられて、海中に身を投じたのです。
数え年8歳(満6歳4箇月)での崩御は、
歴代天皇の中で最も早い死でした。
その墓は赤間神宮の境内にある「安徳天皇阿弥陀寺陵」です。
↓こちら。
しかし、実は壇之浦で崩御しておらず、
別の場所に生き延びたという伝説が各地に残っています。
そのためでしょうか、安徳天皇の陵墓は当地ですが、
その他に陵墓参考地が全国で5箇所もあります。
これだけの陵墓参考地がある天皇は他にいません。
その中の1つが、以前もご紹介した
「安徳天皇西市御陵墓参考地(王居止御陵)」です。
↓こちら。
壇之浦の戦いでは、安徳天皇と共に三種の神器の1つである
天叢雲剣(草薙剣)が関門海峡に沈みました。
源氏軍を率いた源義経が
網引海人を動員して天皇と剣を探していたところ、
数日後、天皇の遺体が網にかかりました。
しかし、剣はありませんでした。
義経は、天皇の遺体を発見しながらも
剣を喪失したことを隠蔽しようと、
密かに遺体を当地・丸尾山に埋葬したのです。
そして、朝廷に対しては、安徳天皇の消息は不明だと
報告したのでした。
なお、遺体を当地に埋葬したのは、運送していたところ
当地でお棺が動かなくなったからと言われていますが、
当地が適地であると判断した結果とも言われています。
さて、安徳天皇の遺体は網にかかったわけですが、
その網は天皇の遺体と一緒にお棺に納められ、
当地まで運ばれたそうです。
そして、その網を洗ったところ、イカが2匹生き返ったそうです。
その時網を掛けた森を「網掛の森」、
網を洗った淵を「烏賊か淵」と呼んだそうです。
場所はいずれも、現在では豊田湖の底に当たります。
これらの碑はその場所を示したもので、
地元出身の齊藤善次氏が建てたものです。
碑の場所は↓こちらです。
ちなみに、イカは宝暦年間(1751年~1764年)まで
祭事の時に姿を見せていたそうですが……
いやいや、600年近く生きたことになるから!
しかも淡水で。