安徳天皇阿弥陀寺陵 | ねりえ日和

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本州の西の端・下関から 石碑やモニュメントを中心に

下関にある赤間神宮は、元々、西暦859年に創建された

阿弥陀寺というお寺でした。

その境内に、壇之浦の戦いで命を落とした安徳天皇が埋葬され、

1191年、安徳天皇を祀るために御影堂が建立されました。

 

明治時代に寺から神社となり、「天皇社」と呼ばれましたが、

その後、明治8年(1875年)に「赤間宮」に、

更には昭和15年(1940年)に「赤間神宮」となりました。

 

 

 

赤間神宮の境内にある安徳天皇の陵墓「阿弥陀寺陵」です。

「あみだじのみささぎ」と読みます。

ちなみに、赤間神宮がある場所は「阿弥陀寺町」ですが、

「あみだじちょう」ではなく、「あみだいじちょう」と読みます。

 

 

先日、「平家一門之墓(七盛塚)」に関連してお示しした

平家の家系図をご参照いただければと思いますが、

安徳天皇は、平清盛の娘・徳子(建礼門院)の息子であり、

清盛の妻・時子(二位の尼)の妹の孫でもあります。

1180年、数え3歳(満1歳4箇月)で即位しました。

 

同年、清盛は福原への遷都を行うとしますが、失敗。

翌1181年に清盛は死亡しました。

 

そして、1183年、源氏に追われた平家とともに、

安徳天皇は都を離れます。

同年には、安徳天皇が退位しないまま、

異母弟の後鳥羽天皇が践祚しています。

 

都を追われた安徳天皇は、大宰府を経て屋島へ。

そして、ついに1185年、壇之浦の戦いで、

二位の尼に抱きかかえられて、海中に身を投じたのです。

数え年8歳(満6歳4箇月)での崩御は、

歴代天皇の中で最も早い死でした。

 

 

しかし、実は壇之浦で崩御しておらず、

別の場所に生き延びたという伝説が各地に残っています。

有名なのは、

・薩摩国硫黄島に逃れ、68歳まで生きた。

という説ですが、

・肥前国に逃れ、僧・神子栄尊となった。

 ※栄尊の父が安徳天皇という説もあります。

・対馬に逃れ、宋氏初代当主・重尚をもうけた。

といった説などがあります。

 

そのためでしょうか、安徳天皇の陵墓は当地ですが、

その他に陵墓参考地が全国で5箇所もあります。

下関にも豊田町にあります。

これだけの陵墓参考地がある天皇は他にいません。

 

 

なお、歴代の男性天皇の中で未婚のままだったのは、

アルビノだったと言われている清寧天皇、

数え2歳(満7箇月)で皇位を継ぎ(歴代最年少天皇)、

数え5歳(満3歳3箇月)で退位し(歴代最年少上皇)、

数え13歳(満11歳7箇月)で崩御した六条天皇、

そして、安徳天皇の3人だけです。

 

また、阿弥陀寺陵は天皇陵の中では最も西にあるもので、

兵庫県以西にある天皇陵は、阿弥陀寺陵の他には、

・崇徳天皇白峯陵(香川県坂出市)

・淳仁天皇淡路陵(兵庫県南あわじ市)

の2つだけです。

 

 

阿弥陀寺陵(門扉)の場所はこちらです。