八咫鏡 奉鎮、八咫鏡 発掘並奉献者 春名義雄殿 頌徳碑 | ねりえ日和

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本州の西の端・下関から 石碑やモニュメントを中心に

 

赤間神宮拝殿向かって右前面にある碑です。

「第十代崇神天皇より第八十一代安徳天皇まで

 千二百七十六年間歴代皇位継承の三種の神器

 八咫鏡 奉鎮」と記されています。

その隣には、「八咫鏡 発掘並奉献者 春名義雄殿 頌徳碑」と

記された碑があります。

前者の碑の建立時期等は確認できておりませんが、

後者の碑は昭和59年(1984年)に建てられたもので、

撰文は、当時の赤間神宮宮司であった水野久直が手掛けています。

 

 

八咫鏡は、八尺瓊勾玉、草薙剣(草那芸之大刀、天叢雲剣)とともに

歴代の天皇が受け継いできた「三種の神器」の1つです。

天の岩戸に隠れた天照大神の前に、

彼女よりも貴い神がいるように見せるために差し出され、

姿を写した鏡が八咫鏡だと伝えられています。

 

ただし、八咫鏡は、草薙剣とともに、

崇神天皇の時に形代が作られたと言われています。

八咫鏡の実物は、現在、伊勢神宮に納められています。

 

 

さて、八咫鏡(形代)ら三種の神器は、

壇之浦の戦いの時に、安徳天皇とともに海中に沈みました。

源氏は八咫鏡(形代)と八尺瓊勾玉(実物)のみ回収に成功。

草薙剣(形代)は回収に失敗しました。

その八咫鏡(形代)は、現在、皇居に安置されています。

 

ところが、赤間神宮には御神体として、

壇之浦の戦いの際に安徳天皇とともにあった

八咫鏡が安置されています。

この八咫鏡は、岡山県の郷土史研究家・春名義雄により、

昭和33年(1958年)に、同県作東町(現・美作市)で

発見されたものです。

発見された場所は「天皇谷」という地で、

古くは天皇社が建てられていたそうです。

 

なぜ、八咫鏡がここにあるかというと、

平家の家臣であった妹尾兼康の一族の者が、

壇之浦の戦いの際に八咫鏡を海から拾い上げ、

当地に落ち延びたためだと言われています。

 

その一族の者に兼康の次男・宗衡時忠が鏡を託したとか、

壇之浦の戦いの際に、兼康自身が

安徳天皇(または二位の尼)から鏡を託されたとか、

または、鏡を拾ったとか

(兼康は壇之浦の戦い以前に死亡しているのですが)、

細かい違いはありますが、

いずれにせよ、妹尾家が当地で

八咫鏡を守ってきたとされています。

 

 

さて、前述のとおり、春名義雄により発見された八咫鏡ですが、

地元での話し合いの結果、

鏡の処置は義雄に一任されることになりました。

そして、義雄は、安徳天皇が祀られている赤間神宮へ

鏡を納めることとしました。

 

ところが、地元より反対意見が湧き上がり、

妹尾兼康の子孫より、鏡の所有権確認訴訟が起こされます。

 

しかし、義雄は昭和34年(1959年)、

八咫鏡を赤間神宮へ奉還しました。

 

裁判は長引き、岡山・山口両県知事も間に入りましたが、

それも不調に終わります。

結局、全てが決着したのは昭和53年(1978年)のことでした。

 

 

ところで、その裁判の過程で、原告側代理人弁護士は、

別の理由でこの鏡の所有権が

妹尾家側にあることを主張しています。

 

 

南北朝時代の後、岡山県北部、かつての美作国には、

後亀山天皇の孫・小倉宮尊義親王に始まる

「美作後南朝」があったと言われています。

1443年、尊義親王が即位(高福天皇)して以来、

1697年に9代目の良懐親王が

幕府により親王号を剥奪されるまで、

250年間にわたって続いていたとされています。

特に、8代目の高仁親王は、京の後水尾天皇より

皇位継承を受けた(高仁天皇)ものの、

幕府はそれを認めず、それが、幕府による南朝弾圧を

強化する結果になったと言われています。

 

上記の弁護人は、八咫鏡は、高仁親王が幕府に追われた際、

妹尾家の子孫であった妹尾兼玄に預けられたものだと

主張したのでした。

 

 

碑の場所はこちらです。