平家一門之墓(七盛塚)(補足) | ねりえ日和

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一昨日ご紹介した「平家一門之墓(七盛塚)」の補足です。

記事を掲載した後に知ったこともあったので、

併せてご紹介いたします。

 

源平合戦や「平家物語」のことはよく知らないので、

もしかしたらトンチンカンなことをお話しするかもしれませんが、

ご容赦ください(;^_^A

 

 

 

さて、↑これは一昨日もUPした写真です。

その際お話ししたとおり

ここには以下の14人の墓(供養塔)が並んでいます。

 

前列

 左少将 平 有盛

 左中将 平 清経

 右中将 平 資盛

 副将能登守 平 教経

 参議修理大夫 平 経盛

 大将中納言 平 知盛

 参議中納言 平 教盛

 

後列

 伊賀平内左衛門 家長

 上総五郎兵衛 忠光

 飛騨三郎左衛門 景経

 飛騨四郎兵衛 景俊

 越中次郎兵衛 盛継

 丹後守侍従 平 忠房

 従二位尼 平 時子

 

この14人を家系図で示すと↓こうなります。

 

 

 

前列に並ぶ7人は、清盛の子・孫・弟・甥です。

しかし、忠房は清盛の孫でありながら、後列に並んでいます。

清盛との血縁で考えれば、

甥の教経が後列で、忠房が前列でも良い気がしますが、

忠房は壇之浦の戦いに参加しておらず、

近江で殺されたため前列ではないのかもしれません。

ちなみに、清経も壇之浦の戦い前に死亡していますが、

死因が入水自殺であったため、

「水天皇」安徳天皇の元にいられるようにとの思いから、

壇之浦で入水した他の6人と同列に扱われたのかもしれません。

※各人の死因については諸説ある場合があります。以下同じ。

 

不思議なのは、有盛、資盛と入水したとされる

行盛の墓(供養塔)がないことです。

 

また、平家の棟梁であった宗盛も入水はしていたわけですが、

墓(供養塔)はありません。

宗盛については、死ねずに泳いでいたところを

源氏方に捕えられてしまったからなのか、

そもそもの評価が低いからなのか、

まあ、そんなところなのでしょう。

 

 

後列の7人のうち、壇之浦で入水したのは

家長、景経、時子の3人で、

忠光、景俊、盛継、忠房は、他所で死亡したようです。

 

家長は、家貞の子で、知盛の乳兄弟と言われています。

しかし、なぜか、Wikipediaには

家長と家貞の血縁についての記述がありません。

ちなみに、家長は伊賀の人で、

「伊賀家長」「服部家長」とも言われます。

服部半蔵を生んだ服部氏の祖とされており、

伊賀流忍術の祖と言われることもあります。

 

また、景経・景俊兄弟は、

父親の景家(忠光の伯父でもあります。)が

宗盛の乳母父を務めています。

 

 

一昨日もお話ししましたが、家長の墓(供養塔)を

「徳門」の墓(供養塔)とする場合もあります。

森鴎外は『小倉日記』において、1901年の訪問時に

「『徳門霊位』と記されていた」旨を記しているそうです。

現在の家長の墓(供養塔)の題字を確認していないのですが、

元々徳門の墓(供養塔)があったのが、

家長の墓(供養塔)に変わったとの見解もあります。

 

しかし、平家一門に「徳門」という人物がいるという記録は、

ねりえは確認できませんでした。

鴎外によると「徳」と「門霊位」の間で石が切れていたそうなので、

もしかしたら、徳子の墓(供養塔)だったのではないでしょうか。

 

 

また、忠房の墓(供養塔)を

「忠季」の墓(供養塔)とする記述も見かけました。

しかし、徳門同様、

平家一門に「忠季」という人物がいるという記録は、

ねりえは確認できませんでした。

もしかしたら、公家・中山忠季

(父・忠親に時忠の娘が嫁いでいます。)と

混同されてしまったのかもしれません。

 

 

これらの墓(供養塔)は、

1600年頃に造られたと考えられています。

 

一昨日ご紹介した伝承とは異なりますが、

豊臣秀吉の命により建てられたとの説もあります。

秀吉は、1587年に阿弥陀寺を参拝して

安徳天皇を追福する歌会を開いています。

 

ただ、家長の墓(供養塔)は1654年に建てられたと

考えられています。

鴎外は、『小倉日記』において、

「徳門の墓に『承応甲午(1654年)』と記されていた」旨を

記しているそうです。