安徳天皇西市御陵墓参考地(王居止御陵)、御陵墓伝説地 | ねりえ日和

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本州の西の端・下関から 石碑やモニュメントを中心に

今年のGWは、新型コロナウイルスの影響で、

しものせき海峡まつりが中止となりました。

そのため、しものせき海峡まつりの中で行われる

先帝祭も中止となりました(神事は非公開で開催されるそうです。)。

 

先帝祭の「先帝」とは、

壇之浦の戦いで命を落とした安徳天皇のことです。

 

安徳天皇は、平清盛の娘・徳子(建礼門院)の息子であり、

清盛の妻・時子(二位の尼)の妹の孫でもあります。

1180年、数え3歳(満1歳4箇月)で即位しました。

 

同年、清盛は福原への遷都を行おうとしますが、失敗。

翌1181年に清盛は死亡しました。

そして、1183年、源氏に追われた平家とともに、

安徳天皇は都を離れます。

同年には、安徳天皇が退位しないまま、

異母弟の後鳥羽天皇が践祚しています。

 

都を追われた安徳天皇は、大宰府を経て屋島へ。

そして、ついに1185年、壇之浦の戦いで、

二位の尼に抱きかかえられて、海中に身を投じたのです。

数え年8歳(満6歳4箇月)での崩御は、

歴代天皇の中で最も早い死でした。

その墓は赤間神宮の境内にある「安徳天皇阿弥陀寺陵」です。

 

しかし、実は壇之浦で崩御しておらず、

別の場所に生き延びたという伝説が各地に残っています。

有名なのは、

・薩摩国硫黄島に逃れ、68歳まで生きた

という説ですが、

・肥前国に逃れ、僧・神子栄尊となった

 ※栄尊の父が安徳天皇という説もあります。

・対馬に逃れ、宋氏初代当主・重尚をもうけた

といった説などがあります。

 

そのためでしょうか、安徳天皇の陵墓は当地ですが、

その他に陵墓参考地が全国で5箇所もあります。

これだけの陵墓参考地がある天皇は他にいません。

 

その中の1つが、下関市豊田町にあります。

 

 

豊田湖の北側、県道34号下関長門線沿いに

↑このような門柱があります。

※レンズにゴミが付いていたようで、

 オーブが写っているようになってしまっています。

 申し訳ありません。

 

 

「安徳天皇西市御陵墓参考地(王居止御陵)」です。

「安徳天皇西市陵墓参考地」と「御」がない記載もあります。

 

 

門扉の隣には、「御陵墓伝説地」と記された碑もあります。

ちなみに、最寄りのバス停の名前は、なんと、「天皇様」です。

 

壇之浦の戦いでは、安徳天皇と共に三種の神器の1つである

天叢雲剣(草薙剣)が関門海峡に沈みました。

源氏軍を率いた源義経が

網引海人を動員して天皇と剣を探していたところ、

数日後、天皇の遺体が網にかかりました。

しかし、剣はありませんでした。

義経は、天皇の遺体を発見しながらも

剣を喪失したことを隠蔽しようと、

密かに遺体を当地・丸尾山に埋葬したのです。

そして、朝廷に対しては、安徳天皇の消息は不明だと

報告したのでした。

 

なお、遺体を当地に埋葬したのは、運送していたところ

当地でお棺が動かなくなったからと言われていますが、

当地が適地であると判断した結果とも言われています。

 

この陵墓は前方後円墳の形状になっているそうですが、

これは古墳時代の天皇陵の形状であり、

安徳天皇の頃に主流だった上円下方墳とは異なります。

そのため、前方後円墳とは別に、

安徳天皇を埋葬した上円下方墳があったと考えられています。

 

では、この陵墓が前方後円墳だとしたら、

そこには誰が埋葬されているのでしょうか?

長くなったので、それは次回ご説明します。

 

陵墓門扉の場所はこちらです。