前回ご紹介した
「安徳天皇西市御陵墓参考地(王居止御陵)」のそばに
古い案内図があるのですが、その脚に碑がくくられています。
「安徳天皇西市陵墓参考地
これにまつわる史跡標柱建設地吉出身下関市
齊藤善次氏寄贈」
と記されています。
「地吉」というのは、この地域の大字名です。
この周辺には、齊藤善次氏が建てた碑(標柱)がいくつもありますが、
この碑は、それを懸賞するため、
昭和57年(1982年)に地元の人が建てたもののようです。
場所はこちらです。
ところで、前回話が途中になっておりましたが……。
この案内図でも正にそう見えますが、
「安徳天皇西市御陵墓参考地(王居止御陵)」である丸尾山が
前方後円墳になっているという説があります。
崇神天皇の子が埋葬されているという言い伝えもあるそうですが、
古墳に眠っているのは、なんと卑弥呼であるという説があります。
この説は、FBI超能力捜査官ジョー・マクモニーグルが
十数年前に透視したとされることから唱えられているものです。
それによると、卑弥呼は、長門市日置の黄波戸の出身。
ヤマト族という部族の女性だったそうです。
部族連合である邪馬台国の女王となった卑弥呼は、
夏は奈良に住み、冬は山口に住みました。
冬の居城があったのは豊田湖北西の下褄山で、
埋葬されたのは丸尾山の前方後円墳でした。
「王居止御陵」の「王居止」というのは
当地の地名(王居址)ですが、
「王居址」の地名もその名残なのだそうです。
まあ、さすがに眉唾ものもいいところだとは思いますが
(「王居止」も、元々「大石」という地名だったものが、
「安徳天皇の御霊が居てとどまっている場所」ということで
「王居止」となったと言われています。)、
下関には神宮皇后にまつわる伝説が数多く残りますし、
小野小町や和泉式部についての伝説もありますし、
一方、長門の向津具半島にも
楊貴妃が流れ着いたとされる伝説がありますし、
こういう説があってもいいんじゃないでしょうかね~。
なお、上記の説によると、
卑弥呼の出身であるヤマト族は中国で成立。
その後、ベトナムから北上し、
九州を経て山口までたどり着いていたそうです。
九州・山口にはヤマト族に由来する地名も残っていて、
下関市大和町や、長門市油谷向津具下大和などが
それなのだそうです。
しかし、下関市の大和町は、
昭和19年(1944年)に、埋立地に新設された町なので、
ヤマト族とはおそらく関係ありません。