下関市上下水道局山陰終末処理場の先、
垢田の海べりに建てられている
「汽船第弐喜佐方丸遭難者之碑」です。
明治42年(1909年)のこと。
大連から大豆を運んでいた貨物船第二喜佐方丸が、
福岡・藍島付近で座礁し、沈没しました。
船には乗客乗員合わせて80人以上が乗っており、
ボートに乗り換えて救助を求めに向かったそうです。
しかし、そのボートも転覆し、
垢田の海岸には31人の遺体が打ち上げられたのでした。
第二喜佐方丸の船主は
「三代船成金」の1人と称された実業家の山下亀三郎です。
伊予国喜佐方村(現・宇和島市)の出身
(「喜佐方丸」の名はそこから来ています。)で、
日露戦争などで活躍した海軍軍人・秋山真之や、
日本資本主義の父・渋沢栄一などからも
高く評価されていたそうです。
亀三郎の子・太郎の残した記述によると、
第二喜佐方丸沈没時(太郎はそれが
明治36年(1903年)のことと記していますが、
おそらく記憶違いでしょう。)の船長の名は餅勇太郎と言い、
マストに身体を縛り、船と共に沈んだ姿で発見されたそうです。
そして、勇太郎の娘・繁子は山下家に引き取られ、
家族同様に育てられたそうです。
なお、亀三郎(又は亀三郎の創設した山下汽船)が所有した
「喜佐方丸」は3隻あったようです
(喜佐方丸、第二喜佐方丸、第三喜佐方丸)が、
明治42年に第二喜佐方丸が沈没、
大正3年(1914年)に喜佐方丸が他の船と衝突して沈没
(ただし、この頃には他者に船を売却していました。)、
大正6年(1917年)に第三喜佐方丸が
欧州でドイツ軍の∪ボートに攻撃されて沈没と、
いずれの船も沈没してしまっています。
碑の海側にある岩礁にある恵美寿神社。
元々はここに密航船の監視所があったそうです。
岩礁から望む沖合人工島・長州出島と長州出島大橋。
碑は当初はもっと海から離れた広場にあったようですが、
宅地造成等の影響で現在地に移転したそうです。
場所はこちらです。