茶屋か原 東前方凡三百米、丸尾山光雲寺址 東前方凡三百米 | ねりえ日和

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本州の西の端・下関から 石碑やモニュメントを中心に

 

豊田湖の豊田湖畔公園入口から

長門方面に1kmほど進んだところに

豊田湖に流れ込む川がありまして、

その手前に石碑が2基建てられています。

 

向かって左から「茶屋か原 東前方凡三百米」

「丸尾山光雲寺址 東前方凡三百米」と記されています。

 

光雲寺は、現在では豊田湖の湖底になっている

茶屋ヶ原(茶屋か原)にあったお寺です。

能埜八蔵光永(了祐)が

安徳天皇西市御陵墓参考地(王居止御陵)」の近くに創建し、

安徳天皇の供養を始めました。

 

光永は大内家の家臣で、

大内家滅亡を受けて出家したと言われています。

また、別の資料では、光永は津原主計頭善勝の家臣で、

1573年に光雲寺を創建したと言われています。

 

善勝は大内家の分流(大内家の祖先である

多々良正恒の三男・正興の系譜)で、

下関王司にあった稲積山城(津原城)の城主でした。

幕末の志士・三吉慎蔵は、

善勝の子孫(実母の実家が津原家)なのだそうです。

 

ところで、光永と善勝について

時系列を整理しようとしているのですが、

どうも上手くいきません。

 

善勝は、応仁の乱(1467年~1478年)で嫡男・善次を失い、

更に、大内家家臣同士が争った青山合戦

(勝山青山合戦)にも敗れた結果、

出家して居館を寺(善勝寺)としたとのことです。

しかし、善勝寺創建は1493年、

青山合戦は1527年のことだそうです。

その上で、家臣の光永が1557年の大内家滅亡を受けて出家し、

1573年に光雲寺を創建したということになります。

 

ここに記した年を全て正しいものとして解釈するならば、

善勝が青山合戦に参加したのは出家後で晩年の出来事、

光永は善勝の晩年になって仕えた武将ということでしょうか。

 

更に言えば、1370年代後半の稲積山城主が

善勝だった書かれている資料もありましたが、

それはさすがに↑これらの年と整合が付きませんね。

別の資料には、その頃の津原家の武将(城主?)として

「津原善是」という名が記されています。

 

さて、光雲寺は、1740年代(又は1660年頃)に

茶屋ヶ原に移転しました。

赤間関街道北道筋沿いにあり、

萩・長府両藩主の宿泊所・休憩所にも使われたそうです。

陵墓にある木戸孝允の詩碑をご紹介した時にもご説明しましたが、

孝允も宿泊したと言われています。

また、山県有朋や三浦梧楼も訪れたことがあったそうです。

 

碑はいずれも地元出身の齊藤善次氏が建てたものです。

 

場所はこちらです。